活動52年目の谷山浩子、中1で作曲家デビュー後はシンガーソングライターに。「本当は自分で歌うつもりはなかった」

谷山浩子 写真/能美潤一郎

シンガーソングライター・谷山浩子の歌声に魅了されない者はいない。『まっくら森の歌』や『恋するニワトリ』といった、『みんなのうた』(NHK/Eテレ)でおなじみの楽曲から、斉藤由貴へ提供した楽曲『土曜日のタマネギ』など、アイドルから声優まで幅広いプロデュースを手掛けている。今年でデビュー52年目を迎えるシンガーソングライター、谷山浩子の人生の転機とは?【第5回/全6回】

活動52年目を迎えるシンガーソングライターの谷山浩子さんは、「本当は自分で歌うつもりはなかった」と話す。音楽にかかわる仕事に就きたい、と考えたきっかけはなんだったのだろうか?

――いつごろからプロを目指していましたか?

「小学校高学年の時に、作詞家や作曲家という職業があるって知りました。ちょうどグループサウンズが流行っていて、私はザ・タイガース(沢田研二さんがボーカルを務めていたバンド)が好きだったんです。彼らがファンの人から歌詞を募集するという企画が何度かあったので、応募したんですが1次予選も通らなかったです」

70年代は、NHKに出演するためにはオーディションが必要だった。NHK・Eテレの『みんなのうた』で多数の楽曲を手掛けた印象が強い谷山さんだが、15歳の時、NHKのオーディションには2回落ちているという。

「歌いさえすれば合格できる、めったに落ちないオーディションだと聞いていたんですが、よく準備をしないで起き抜けの声で歌ったりして落ちました」

初めてのテレビ出演も

デビューした72年には、テレビ番組のレギュラーも獲得していた。順風満帆に見える音楽活動だが、本人にとっては苦痛だったという。

「『ステージ101』(1970年代から放送されていたNHKの音楽番組)が初めてのテレビ出演でしたが、テレビに出ること自体がどういうことなのかあまりわかっていませんでした。ぼんやりと、スタジオに色々なセットが組んであって、カメラで撮っている人がいた記憶があります。すごく煌びやかで夢みたいに美しい場所でした。そして歌って踊る番組だったのですが、私は踊れなかった(笑)。

出演者は、今でいう陽キャみたいな人たちがいっぱいいたので、テレビに出ることよりも自分がそういう場にいることのほうが辛かったです。種類の違う人間が1人だけそこにいるみたいで、ストレスから休憩時間にトイレに閉じこもったりしました」

作詞作曲家になるのが夢だった

「番組を観た親から、“笑顔がない”とか言われた」という『ステージ101』出演。谷山さんが当初やりたいと思っていたこととどんどん乖離していった。

「本当は、自分で作った曲を誰かに提供する作詞家や作曲家になりたかったので、自分が表舞台に出るなんて想像していなかった。だから葛藤もすごくありました。

『ステージ101』も早く辞めたかった。最後の半年くらいは高校の単位が危なくなったので、学業を優先しました。そのためあまり出演しなくなっていた時期に、番組自体も終了しました」

谷山浩子 写真/能美潤一郎

音楽番組に出演しながらも、自分のやりたい作詞作曲家としての活動を目指した谷山さん。高校時代には、コンテストで結果を残す。

「高校時代に一緒に音楽活動をしていた女の子から“ポプコン”(ポピュラーソングコンテスト。ヤマハ音楽振興会主催)を教えてもらったんです。授業中に作った『お早うございますの帽子屋さん』という曲が入賞して(1974年・第7回つま恋本選会)。そこで、キャニオン・レコードからシングルを出してもらった。そのときにヤマハから専属契約のお話をいただいたのですが、まだ歌手になるつもりがなかったので、2年くらいお断りをしていました」

一つ一つの言葉の中に、芯の強さを感じさせられる谷山さん。7歳からスタートした作詞作曲活動が、谷山さんに幾度も転機を迎えさせた。

谷山浩子(たにやま・ひろこ)
1956年8月29日生。神奈川県出身。シンガーソングライター。中学在学中からオリジナル曲を作り始め、1970年にベイビー・ブラザーズのシングルで作詞作曲家としてデビュー。1972年4月25日、アルバム『静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜』とシングル『銀河系はやっぱりまわってる』で一度目のデビュー。1974年『第7回ポピュラーソングコンテスト』で『お早うございますの帽子屋さん』が入賞。同曲で翌年、再デビュー。1977年シングル『河のほとりに』をリリースし、3度目のデビュー。以後、「オールナイトニッポン」をはじめとするラジオ番組のパーソナリティ、童話、エッセイ、小説の執筆、全国各地でのコンサートなど、精力的に活動中。

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