小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=121

「……」
「人生、人に嫌われながら世に憚るより、惜しまれつつ逝くのも花ではないか。君も今後は誰にも気兼ねせず、自由に生きることだな。これまで、縛られすぎてはいなかったか」
「……」
「まあ、おじさん、しばらく。お元気?」
 和子が卵焼きを皿に並べて持ってきた。母親似で、父親の私とは心の中で反発し合っていても、お客には愛想がいい。
「いつもの通りさ。和ちゃんはどうだい。もう、すっかりいい娘さんだな。あれは十年も前かな。訪ねてきた俺の膝に腰掛けて、何とかで何とかモーチャンよ、と沖縄の民謡を歌ったりしてさ。俺がシャムの歌を聞かせると、次にきた時、ちゃんと覚えていて、それを歌ってくれた……」
 吉本はしみじみと言った。長年羽振りのよかった男だが、今は頭に白いものが増え、家族や女房とも離別していた。恋女房とは別れ住んでいても未練を持ち続け、他の女には眼もくれず独り暮らしでいる。私たちが彼の誕生日を祝ってやると、
「俺にはこんな家庭はなかった。家族以上の友情だ。感激だ」
 と言って涙を流した。ある時は、自ら考案した道化師となって皆を笑わせた。私は彼の道化振りを見てかえって物淋しさを感じた。店から小僧が呼びにきた。出てみると、少し着膨れて太って見える女性が、
「中嶋さんはこちらでしょうか」と、揉み手をしながら私を見つめた。
「何だ、改まって、秋野朋子さんじゃないか」
「やっぱり中嶋さんでしたのね。しばらくお眼にかからない間にすっかり変わって」
「珍しいですねえ」
「ご無沙汰しています。この間、娘さんとお会いしました。奥様が亡くなられたそうで……」
 秋野朋子は改めて頭を下げた。
「店じゃゆっくり話もできない。住宅の方にしましょう。ちょうど吉本純二もきているんです」
「朋子君じゃないか! 何年振りかな。短歌を忘れたカナリヤ、その後どうしているんだい」
 吉本が立ち上がって朋子に抱擁した。ぎごちない動作だが、女性に抱擁できる歌人は吉本をおいて他にない。
「わあ驚いた。いきなり抱きついたりして」
「親愛の表現だよ。驚くことはないだろう」
「吉本さん、いつ見てもハンサムね」
「うん、やっぱりそう見えるかい。うれしいな。それよりお前さん、その後どうなんだい」

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