2022年に没した〈エリザベス女王〉の「王位継承権」保持者は4,000人超…!イギリス王室の“跡取り候補”が豊富すぎる「特殊な事情」【世界史】

世界史について「断片的な知識ならあるけれど…」という人も多いことでしょう。しかし、世界史を学ぶ際には、「歴史を“ひとつながりの物語”と捉えて、一気通貫で理解するほうがいい」と、立命館アジア太平洋大学(APU)前学長である出口治明氏は言います。出口氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、18世紀に世界各国で起こった領土の奪い合いや王位継承を軸に、世界の流れを把握し、理解を深めていきましょう。

2度の“窮地”を脱したロシアのピョートル1世の強運

18世紀に入っても、ヨーロッパでは火事場泥棒のような戦争が続きます。

17世紀末のヨーロッパでは、跡継ぎのいないスペインの王様のカルロス2世が死にそうになっていて、フランスのルイ14世が自分の孫をスペインの王様にしようと狙っていたのでしたね。そんなスペインにみんなが注目している間に、デンマークとポーランド、ロシアが、スウェーデンに戦争を仕掛けたのが、大北方戦争です。スウェーデンのカール12世という王様は即位したばかりの若造。ならば圧勝できると思って戦争を仕掛けましたが、カール12世は実は戦争の天才で、ロシアのピョートル1世は大敗してしまったのでしたね。

ところが、カール12世はやっぱり若かったのです。ロシアを負かした後、ポーランドに向かったのです。そのままモスクワに直行してロシアの息の根を止めてからポーランドにいけばよかったのではないかと考える人もいます。

けれど、そうしなかったカール12世は、ポーランドを属国として、自分のいうことをよく聞くスタニスワフ・レシチニスキを王様に選びます。けれど、あちこちで内戦が起きて、ポーランドの平定に5年も費やしてしまいました。ということは、ロシアのピョートル1世は5年間の時間を稼げたということです。その間にピョートル1世は、新都サンクトペテルブルクを建設してバルト海への出口を確保し、軍を立て直します。

カール12世は1707年、ついにロシア遠征に踏み切ります。ピョートル1世は軍を立て直して待ち構えています。1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデンは敗れて、カール12世はオスマン朝に亡命します。そして今度は、オスマン朝の客人としてロシアと戦うのです。それが1711年のプルート川の戦いで、ここではオスマン朝が圧勝しました。

プルート川の戦いで、ピョートル1世は捕虜になる寸前まで追い詰められます。このとき、ピョートル1世は、若き日に獲得した黒海の内海、アゾフ海を返す代わりに、命だけは助けてもらいます。オスマン朝のアフメト3世は、鷹揚な人で聞き入れてしまったのですね。ピョートル1世は強運でした。

イングランドは、ドイツから王様を“輸入”して育てた

イングランドでは、メアリー2世の妹のアンが即位しましたが、死産と流産を繰り返し、子どもが育ちません。ステュアート朝は断絶しそうです。

イングランドの議会にとって嫌なのは、ローマ教会の信者が王様になることです。だから法律をつくって、プロテスタントだったジェイムズ1世の外孫である、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーの子孫だけが、王位を継承できることにしました。

その後、ゾフィーの子孫は増え続けました。2022年に亡くなったエリザベス2世の王位継承権を持つ人は4,000人を優に超えたといいます。跡を継いだのはチャールズ3世ですが、もちろん男性でも女性でもいいんです。だからイングランドの王室はとても強靱です。これだけ跡取り候補がいたら断絶しませんよね。

1707年には、イングランドとスコットランドが合同し、連合王国が成立します。

1714年、女王アンが死去すると、ドイツのハノーファーからジョージ1世がきて、連合王国の王様になります。

ジョージ1世はドイツ人で、英語は一言も話せません。やっぱり、ハノーファーの方が居心地がいいので、頻繁にドイツに帰ります。

議会は喜びました。「これは都合がええ。政治に口出しせえへんで」と。こういう発想が平気でできるところがイングランドの強さです。ハノーファー朝は名前を変えながらも、今のウィンザー朝まで続いています。ハノーファー朝の王族は、ドイツ人同士で結婚を繰り返しました。だから今も王様はドイツ人のようなもので、王様を輸入してきたわけです。それをうまく育てて、国を治めてきたのです。

スペイン継承戦争から生まれた、プロイセン王国とサルデーニャ王国

1700年、スペインでカルロス2世が死にます。その王位を、フランスのルイ14世の孫であるフェリペ5世が相続すると当然、戦争が始まります。スペイン継承戦争です。

フェリペ5世の王位継承に反対する急先鋒は、イングランドとオーストリアのハプスブルク家で、戦いは12年も続きます。

オーストリアのハプスブルク家のレオポルト1世は、ベルリンにいたブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世に援軍を頼みますが、ベルリンとスペインは遠い。フリードリヒ1世は兵を出し渋ります。レオポルト1世は餌で釣ろうと「だったら、プロイセンの王様にしたるで」と約束しました。

フリードリヒ1世はそれまで「ブランデンブルク選帝侯」であり、「プロイセン公爵」でした。2つの肩書がありましたが、いずれも王号よりは下です。「王様」の肩書にフリードリヒ1世は飛びつき、さっさとプロイセンの首都ケーニヒスベルクに向かうと、戴冠します。

まあ、正確には「プロイセンの王」です。ブランデンブルクとプロイセンは遠く離れていて、間にポーランドがあります。堂々と「プロイセン国王」と名乗れるようになるのは、ポーランドから西プロイセンを獲得した1772年以降のことです。

スペイン継承戦争が終わり、1713年、ユトレヒト条約が結ばれました。フェリペ5世の王位継承は認められましたが、スペインは、オーストリアにベルギー、ミラノ、ナポリを渡しました。また、シチリアをサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世に渡します。ユトレヒト条約では、フランスも多くの植民地をイングランドに譲っています。

サヴォイア公はなかなか賢くて、その後、「シチリアをサルデーニャ島と交換してくれませんか」とオーストリアに申し入れます。シチリアの方が豊かで人口も多いですから、オーストリアは喜んで交換します。こうして1720年にサルデーニャ王国ができます。

サヴォイア公国はイタリア北西部に位置します。だから、サヴォイア公にしてみれば、サルデーニャの方が近いので統治がしやすい。長期的な視野に立って交換を申し入れたのです。このサルデーニャ王国がのちにイタリアを統一します。

フランス革命の伏線は、ルイ14世の借金と、長生きしたルイ15世

フランスではルイ15世が即位します。凡庸な君主で、やることといえばガールフレンドをつくるぐらいでしたが、60年ほど在位しました。先代のルイ14世が戦争をしまくってつくった借金はそのまま残っています。次のルイ16世はかわいそうです。これがフランス革命の伏線になります。

“戦争の天才”はスウェーデンを弱らせ、ロシア帝国が台頭する

スウェーデンのカール12世はオスマン朝から帰国すると、デンマークやノルウェーとの戦争を再開しますが、1718年、最前線で戦死します。いくら戦争の天才が率いていたとはいえ、大北方戦争の開戦から18年も戦争を続けていたわけです。スウェーデンは人口が少ない国ですから、みんながくたびれてしまいました。

1721年にはニスタット条約が結ばれ、大北方戦争は終わりますが、この条約は「スウェーデンの死亡診断書」といわれています。スウェーデンは、エストニアなどヨーロッパ大陸側に持っていた領土の多くを失い、ロシアはバルト海進出を果たします。ピョートル1世は国名をロシア帝国に昇格させて、ピョートル大帝と呼ばれるようになります。バルト海の覇権はロシアに移ります。

トルコ、インド、イランの“アジア3大帝国”が落日を迎える

17世紀のアジアは、4大帝国が最盛期を迎えた時代でした。4大帝国とは、中国のとトルコのオスマン朝、インドのムガール朝、ペルシャ(イラン)のサファヴィー朝です。

18世紀には、これら4大帝国のうち、清を除く3大帝国が落日を迎えます。

オスマン朝のアフメト3世は、ピョートル大帝の命乞いを聞き入れた鷹揚な人でしたね。花が大好きで、ネーデルラントからチューリップを輸入して町中を飾りました。チューリップ時代と呼ばれ、衰退の冬を前にした秋日和のような楽しい時代です。

インドでは、ヒンドゥー教徒を迫害していたムガール朝のアウラングゼーブが1707年に死ぬと、それまでの無理がたたってガタガタになります。

サファヴィー朝は1722年、首都イスファハーンをアフガニスタンの勢力に占領されます。かつて「世界の半分」といわれるほど栄えた町を略奪され、実質的に滅亡します。

そこにナーディル・シャーという軍人が現れ、サファヴィー朝の皇帝を助けて、1729年にイスファハーンを奪還しました。サファヴィー朝は再建されました。でも、これは織田信長が足利義昭を助けて京都に入ったような話で、皇帝が自力で都を回復したわけではありません。信長はやがて義昭をケアするのが面倒になって放逐しました。それと同様にナーディルは7年後、サファヴィー朝を滅ぼしてアフシャール朝を開きます。

ナーディルは軍事の天才で、インドまで遠征してデリーを占領してしまいます。インドのムガール朝はペルシャ軍に都を奪われるほど衰退してしまったわけです。

「最後の征服者」と呼ばれたナーディルは1747年、暗殺されます。これを見ていたアフマド・シャー・ドゥッラーニーという武将がアフガニスタンで自立し、ドゥッラーニー朝をつくります。

「人頭税」を廃止した中国の人口が激増する

一方、中国の清は最盛期を迎えていました。

清の康熙帝の子どもの雍正帝はワーカホリックで、めちゃ仕事を頑張りました。どれくらい頑張ったかというと、奏摺(そうしゅう)という報告書を1200人くらいの役人と交わしていました。1200人の幹部と毎日、メールをやりとりしているような感じです。報告書を読んだら、朱字を入れます。「これはあかん」「これはよくやった」「今度、こんなことをしたらクビだぞ」などと。だから、睡眠時間が3時間くらいしかなかったともいわれています。

雍正帝は、税制も変えました。

中国の税金はもともと銀がベースでした。昔から陶磁器やお茶、絹といった世界商品がたくさんあって、その代金として世界中から銀が集まる中国だから、できたことです。

雍正帝の先代の康熙帝は、地丁銀制を導入しました。地税の「地銀」に、人頭税の「丁銀」を繰り込み、一括して銀納するという仕組みです。そして丁銀の額は固定化されました。

雍正帝は、さらに踏み込み、人頭税の「丁銀」を廃止します。つまり、地銀制にしたのです。土地や資産をベースに課税して、銀で納税するという仕組みです。

人頭税を廃止すると、中国の人口が急増しました。なぜかというと、人頭税の時代には、人の数が多いほど税金が増えるので、みんな子どもの数などを隠していたわけです。逆に、人頭税がなくなったら「正直に報告しようか」となったわけです。いかに税金というものが社会を変えるかがわかります。

出口治明
立命館アジア太平洋大学(APU)
学長特命補佐

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