「財団法人の責務を果たすことが第一の相撲協会のなす仕事」70年前の国会で第10代佐渡ケ嶽親方が激しく批判【親方と力士のホンネ「蘇る角言」】

国会でも大相撲が取り上げられた(右から武蔵川理事、元佐渡ケ嶽親方、元関脇天竜)/(C)共同通信社

【親方と力士のホンネ「蘇る角言」】

大相撲の不祥事や日本相撲協会のあり方については再三、国会でも取り上げられてきた。法制度の裏付けがない「国技」を名乗ることが問題視され、内閣総理大臣杯の名義使用停止を求める質問が出たこともある。

1957年4月の衆議院文教委員会では力士の待遇、茶屋制度、一般向け入場券販売など多くの根本的問題が指摘され、出羽海理事長(元横綱常ノ花)の割腹自殺未遂にもつながったといわれる。

大きな論点の一つが、公益法人としての目的である「相撲専修学校」の設立だった。協会改革を訴える立場で呼ばれた参考人の和久田三郎氏(元関脇天竜)、永井高一郎氏(元幕内阿久津川)は、これを定款第1条に掲げながら30年ほども放置していた協会を追及した。

関取経験者に「相撲指導者養成所」で体育学などの教育を施して教官になってもらい、力士になる、ならないにかかわらず、日本中に体育・文化としての相撲を広める──。それが永井氏らの考える専修学校だった。

だが、理事長代理で出席した武蔵川理事(元幕内出羽ノ花、のち理事長)の答弁は煮え切らず、新弟子養成所をイメージしており、協会繁栄、利益追求が目的と聞こえる。永井氏はこの問題に限らず興行本位の協会を、厳しく批判した。

「財団法人たる責務を果たすことが第一の相撲協会のなす仕事だと自分は感じておるものであります。(略)理事会の機会あるごとに自分は始終申し述べたにかかわらず、何らこれに対する反響がないのであります」

永井氏は第10代佐渡ケ嶽親方として理事も務めた。相撲健康体操の原型を考案し、私費で「大日本国技研修会」も設立して相撲の普及に尽力したが、執行部にうとまれて協会を追われた。その経緯も国会で証言している。

その後にできたのが現在の相撲教習所だった。新弟子に実技や相撲文化、教養の座学を施す役割を担っているが、先の役員改選では、前期にナンバー2の事業部長だった芝田山理事(元横綱大乃国)が教習所長に任命された。

公益目的を果たすはずの「学校」は、国会の議論をかわすために形を変え、今では遠ざけたい理事を追いやる職場になったのだろうか。

▽若林哲治(わかばやし・てつじ)1959年生まれ。時事通信社で主に大相撲を担当。

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