「ユニホームは戦闘服だ」野球から得たのは我慢と継続・黒田博樹さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(37)

2015年2月、プロ野球広島の2次キャンプに合流し、ブルペンで投球練習する黒田博樹投手=沖縄県沖縄市

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第37回は黒田博樹さんです。低迷期の広島で奮闘。米大リーグでは名門2チームの先発マウンドを任され、日本復帰で古巣を25年ぶりのリーグ優勝に導きました。腕を振り続けた20年。それを支えた力の源を明かしてくれました。(共同通信=中西利夫)

 ▽何歳であろうがローテーションで回るのがポリシー

 いろいろ考えながら決断し、日本に帰ってきた時の公式戦初登板(2015年3月29日のヤクルト戦)。打たれたり変なピッチングだったりしたら、結構苦しいシーズンになっていたかも。そういった意味で、あのゲームは大きかったのかなと思う(7回5安打無失点で勝利投手に)。勝ててほっとしたというのが一番。年齢がどんどんいって上り坂じゃないが、周りからはメジャーリーグから帰ってきたピッチャーという見方をされる。みんなが思っているほど、自分の体と技術が一致しない怖さがあった。毎年毎年、コンディションが変わってくる。体調が変わると技術的な部分はどうしても多少変わってくるので。40歳でシーズンを迎えるわけで、それも環境が変わった日本で迎えるというのは怖かった。しっかりと戦力として戻らないと意味がないと思っていた。当然周りもそう見ている。年齢的なことよりも、今この体で結果を残せるかどうかを考える方が強かった。

1997年4月、黒田博樹さんはプロ初登板で完投勝利をマークした=東京ドーム

 日本に帰って、たくさんの人から応援してもらう中で、やっぱりファンの人たち、そしてチームメートをがっかりさせたくなかった。こけてしまうと自分のやってきたことがゼロになってしまうという怖さもあった。相当な覚悟だった。先発ピッチャーである以上は何歳であろうが、ローテーションで回るのが僕のポリシー。規定投球回数を投げるのが最低限だと思っていた。年間何試合と限定されれば、できたかもしれないけれど、僕の中では、それはなかったという感じ。

2005年10月、セ・リーグ最多勝の黒田博樹さんは本塁打王の新井貴浩さん(右、現広島監督)と笑顔でポーズ=広島市中区の球団事務所

 ▽変化を怖がると、いつまでたっても成長できない

 ヤンキースに移って、ドジャースタジアムでの交流戦。相手ピッチャーのクレイトン・カーショーと投げ合えた(13年7月31日)。ドジャースから出るのは自分の選択肢になかったが、出ざるを得なかった。ヤンキースでもある程度評価されるようになったところで、何の巡り合わせか分からないがカーショーと投げ合ったことは、とても印象に残っている。0―0で七回ぐらいまでいって、お互いに勝敗は付かなかったけど(黒田さんは7回5安打無失点)、振り返ってみれば何かすごく気持ちのいい投手戦だった。でも、あまり思い出さないようにした。そこは頭を切り替えた。僕自身は過去を振り返らないというか、考えないようにしていた。1年が終われば、次のシーズンのことや体の状態を考えながら、もう1年できるかどうか考えて勝負するというスタンスだった。そういうメンタルだからこそ、メジャーでもやってこられたのかな。

2007年4月の阪神戦でシーズン初勝利の黒田博樹さんは当時のブラウン監督(左)に祝福される=広島

 ツーシームの習得は、そこで生き残るための手段。自分のスタイルを押し通して勝てれば、それに越したことはないが、メジャーぐらいになると、なかなか勝てない。結果を出すには、どうすればいいかを考えた時に、そういうスタイルに行き着いた。変える怖さは当然ある。マイナスに作用することもある。ただ、変化を怖がると、いつまでたっても成長できない。進化できない。チャレンジするのも相当な覚悟がないと、メジャーではやっていけなかった。
 大リーグ挑戦を考えた理由? ピッチャーとして、もう一つ上のステージがメジャーなら、そこへ行きたいなと。松坂大輔、井川慶とか周りのエースと呼ばれるピッチャーがメジャーを目指す姿を見て、やっぱり自分もそこで勝負したいなという気持ちが強くなっていったのはあるかもしれない。憧れは一切なかった。憧れという感覚で行こうとは思わなかった。世界最高峰のところで、もう一度勝負をしたいという気持ちの方が強かった。

2010年8月のフィリーズ戦で10勝目を挙げ、笑顔でインタビューに答える黒田博樹さん=ドジャースタジアム

 ▽相手野手とシーズン中もオフもしゃべりたくなかった

 (ドジャースでは1年目が9勝、2年目が8勝と2桁に届かず)ピッチャーは勝ち負けがつくポジションだし、勝つに越したことはない。だが、日本と違ってアメリカは評価する項目がたくさんあった。勝ち星だけではない評価。打線の援護がなかったとしても頑張れた部分かも。苦労はいっぱいありすぎて分からない。本当に日本と全く違う環境だった。簡単に言えば試合数が違う。向こうは平気で20何連戦。あるいは10連戦が終わったら、また10連戦とかが普通。移動も含めて、日本とは違った環境で試合をこなしていくのは大変だった。細かい部分での大変さもあった。食事も日本にいる時は考えていたけど、アメリカは試合が終わって日本食を食べられるところはほとんどないので、そこは切り捨てて、逆に何か食べられればいい、ぐらい鈍感になった。

2014年6月のオリオールズ戦で同点打を許し、厳しい表情の黒田博樹さん=ニューヨーク

 メンタル的にマウンドに上がれば強くならないといけない。だから、相手チームの野手とはシーズン中もオフもしゃべりたくない。しゃべってしまうと自分の弱さが出てしまうというのがあった。自分の性格をしっかり分析し、そうしないと結果は出ないだろうなと思っていた。野手の人とはあいさつ程度、あとは談笑することも食事に行くこともなかった。僕は試合中に笑ったりすると、そこで気持ちが抜けてしまうので、取りあえず降板するまでは常に戦う精神を持ち続けた。
 性格はすごく慎重だし、ネガティブだと思う。ここで打たれたらとマウンドで当然考える。それを消すために、いろんな準備をする。次の登板までネガティブなことが頭によぎる中で何をするか。100%でマウンドに上がるのはシーズンを考えると難しい。どれだけ100%に近づけるか。その一つが体の準備。相手の分析、研究。そしてマウンドに上がる時に怖さを振り払うというのが自分のルーティン。打たれる怖さはあるけども、準備をすることで軽減されると思うし、それがまた闘争心に変わっていく。

 ▽壁をぶち破っていくと大きくなれる

 先発というのは登板日が決められているので、それに向けてしっかり調整できる。自己責任の部分が調整の中では多々ある。僕自身は登板日、緊張感は多少あるが、それを抑えつつゲーム時間から逆算をしてルーティンをこなしていく。ユニホームを着て最後のボタンを留めてからスイッチを入れるようにしていた。そこからもう自分は戦う精神で、目つきも変わったし、恐怖心を打ち消すような闘争心を持つようにしていた。アメリカでも、あれだけ体のでかいバッターと対戦するから、怖がっていたら何もできない。常に向かっていく気持ちは大事だ。ユニホームは戦闘服という気持ちで袖を通せば、いいパフォーマンスができるんじゃないかと思ってました。

2016年9月、広島が25年ぶりのセ・リーグ優勝を決めた巨人戦で先発し、力投する黒田博樹さん=東京ドーム

 野球から得たものは我慢することと継続すること。いくら自分が一生懸命投げて0点に抑えても勝てないゲームもある。相手ピッチャー、打線の兼ね合い。その中で我慢して投げ続けることが大事。気持ちを切らさずに、また次の登板に向けて調整していく。500試合余り投げてきたが、その中でどっかで投げ出したくなる時も当然あった。でも、我慢しながら続けていくのが一番僕にとっては大きかったかな。プロなんで、1、2年結果を残しただけじゃ評価されない。体のコンディションは毎年変わってくるだろうし、けがも出る。両親が病気になってメンタル的にしんどくなって、というのもある。その中でプロである以上はコンスタントに結果を出し続けるというのが評価されるところ。
 好きな言葉は「雪に耐えて梅花麗し」。いい時ばかりじゃないので。順風満帆もいいのかも分からないけど、苦しいところを乗り越えてきた方が、人間的にも強くなれるんじゃないかな。野球選手としても強くなって壁をぶち破っていくと、また一回りも二回りも大きくなれる。

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 黒田 博樹氏(くろだ・ひろき)大阪・上宮高―専大からドラフト2位で1997年に広島入団。2005年に最多勝、06年に最優秀防御率のタイトルを獲得した。08年に米大リーグのドジャースへ移籍し、12年からヤンキースでプレー。15年に広島復帰。名球会入り条件の日米通算200勝は16年7月に到達。25年ぶりのリーグ優勝を果たした同年限りで引退した。75年2月10日生まれの49歳。大阪府出身。

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