『秒速5センチメートル』に僕らは何度だって傷つく 在りし日の“繊細な”新海誠を想う

2007年に公開された新海誠監督作『秒速5センチメートル』が、3月29日よりリバイバル上映されている。

この作品は、小学生時代から思い合っていた男女の約20年に渡る成長と心の変化を丁寧に、繊細に描いている。

3本の連作短編で構成されており、それぞれ主人公の遠野貴樹と篠原明里、貴樹に思いを寄せる澄田花苗らのモノローグを軸に、物語はゆっくりと進んでいく。

泣きたいぐらいに美しい作品だ。

ただ美しさというものは、時に残酷な現実を突き付け、時に人を傷つける。だが人間というものは、やっと治りかけた傷口のかさぶたを剥がしたくなるものだ。

だから筆者は、何度も傷つき打ちのめされながらも、またこの作品を観てしまう。

監督自身の発言や、映画で伝わらなかったり誤解された部分を補填するために監督自身が書いた小説版によれば、あの結末はバッドエンドではなかったそうだ。あの結末だったからこそ、主人公はやっと前を向くことができたのだと。

頭ではなんとか理解した。だがやはり、初見の際のショックが大きすぎた。

筆者はエンドロールが終わってもしばらく立ち上がれなかったし、翌日は仕事を休んだ。

貴樹も明里も、あの中学一年生の雪の日の出来事を、宝物のように胸に抱き続けて生きてきた。

あの日の思い出が大切だからこそ、貴樹はいつかもう一度明里に会いたかった。

あの日の思い出が大切だからこそ、明里はもう貴樹には会いたくなかった。

明里は、あの日の思い出を大切に胸にしまったまま、現実を生きてきた。

貴樹は、あの日の思い出に囚われたまま、あの日で時が止まったかのように生きてきた。

第2話『コスモナウト』で花苗が、「最初から、遠野くんは他の男の子たちとは、どこか少し違っていた」と言っている(この作品は、3本の連作短編で構成されている)。

そうだろうと思う。

他の男の子たちはリアルな中学生として、芽生えだした性欲や発露しだした自我(いわゆる中二病的な)を抱え、今この瞬間を精一杯生きている。

それに対して貴樹は、現実を生きていないのだから。

彼が生きているのは夢の中だ。その中で一緒に生きているのは明里だけ、それも、彼の夢の中で成長した明里だ。

彼が優しいのは、他人に興味がないからだ。相手を見ていないからだ。

社会人になった彼は、3年間付き合った女性にメールで別れを告げられる。

「1000回もメールをやり取りしても、心は1センチぐらいしか近づけませんでした」

その女性は、貴樹の“残酷な優しさ”に深く傷ついたのだろう。

花苗は、結局貴樹に思いを告げることはできなかった。だがもし告白していたら、貴樹は普通に受け入れていたのだと思う。その“残酷な優しさ”で。「ありがとう。嬉しいよ」とか言って、空疎な笑みを浮かべながら。

結果、花苗をより深く傷つけたはずだ。

第3話『秒速5センチメートル』において、貴樹は20代後半の大人の男性になっている。5年間勤めた会社を辞め、先述の通り彼女とも別れ、何もかもなくなった彼は、ひとり新宿の街を歩く。

心の奥底にいるのは、やはり明里だ。山崎まさよしの歌声がかぶさる。

〈こんなとこに い・る・は・ず・も・な・い・の・に!〉

その一音一音が、目まぐるしくカットを変えながら、容赦なくグサグサ突き刺さる。

「言えなかった好きという言葉も」

言われてみれば、貴樹も明里も花苗も、明確に相手に「好き」という言葉を伝えていない。

貴樹と明里がすれ違い、踏切を隔ててお互いに気づいたが、ふたりの間を電車が横切る。

作品のオープニングでも、小学生時代のふたりを隔てて電車が横切る。この時の明里は、確実に貴樹を待っていたはずだ。

「お願い! 明里! そのまま待ってて! また貴樹に笑ってあげて! でないと、貴樹は、本当にダメになってしまう……」

懇願するような気持ちで見ていた。

電車が通り過ぎた時、明里はもういなかった。

その瞬間の、奈落に突き落とされたような絶望感。

直後、貴樹は笑みを浮かべる。その笑みは「前向きに立ち直った」笑みらしいのだが、先刻の絶望感が大きすぎたため、筆者には「自嘲の笑み」、「自己憐憫の笑み」に見えた。この先の人生、貴樹はより深い闇に落ちていくのだと思った。

創作者が「そうではない」と言っている以上、これは完全にこちらの「誤読」だ。映画評を書いてお金をいただいている人間としては、恥ずべきことなのだろう。

けれど、筆者はこの作品を「傷口をえぐる物語」と位置づけ、それでもかさぶたを剝がすように何度も観てきた。

深い絶望を味わい、一旦底の底まで落ちることにより、「それならあとは上るだけだ」と、またがんばれる。ある種のショック療法的な鑑賞法だ。

「誤読」ではあったけれど、あの踏切の後の貴樹の心境に、近いのかもしれない。

デビュー作『ほしのこえ』(2002年)以来、『雲のむこう、約束の場所』(2004年)、今作、『言の葉の庭』(2013年)と、新海誠は「あまりにも脆く、そーっと揺らさないように、握る手に力を入れ過ぎないように、慎重に扱わなければすぐに壊れてしまうような」、そんな繊細な作品を作り続けてきた(※2011年の『星を追う子ども』という作品もあるのだが、この作品のみ毛色が違い過ぎるので、ここでは触れない)。

それらの作品群は、かさぶたを剥がしたいタイプのコアなファンは生み続けただろうが、万人に受けるとは言い難かった。

だから、2016年にガラッと作風の変わった『君の名は。』を発表した時は、「あのいつも泣いてた誠ちゃんが逞しくなって……」と、親戚のおばちゃんのような感想を抱いたものだ。

「男女間のどうしようもない、物理的、あるいは精神的距離のジレンマ」という通底するテーマは変わらないものの、主要キャラたちはやたらアクティブになっていた。今までの図書室や保健室の似合う少年少女たちは、校庭をかけ回りそうなほどに元気になっていた。

この『君の名は。』のラストシーンでも、主人公の男女は東京の街で偶然すれ違う。涙を浮かべて再会を喜ぶふたりを観て、貴樹と明里はなぜこうなれなかったのかと思う。

作風を変えてからの新海誠は、その後も『天気の子』(2019年)、『すずめの戸締まり』(2022年)と大ヒットを連発し、日本を代表するアニメーション監督となった。

でも、これだけ商業的に文句のない結果を出したのだ。そろそろまた、以前の作風の映画も観てみたいと思う。

作家性が強く、繊細で、切なく悲しい作品を。

かさぶたを剝がしたくなるような、美しい作品を。
(文=ハシマトシヒロ)

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