曙さん秘めた角界〝復帰〟プラン 「大学で親方をやりたい」と周囲に語っていた

2005年度プロレス大賞で最優秀タッグ賞に輝いた武藤敬司と曙

大相撲の第64代横綱でプロレス、格闘技でも活躍した曙太郎さんが心不全により54歳で死去したことがわかり、マット界は深い悲しみに包まれている。2001年1月に654勝232敗の成績を残して引退後、03年大みそかに格闘家としてデビュー。その後、プロレスラーとして数々の功績を残した。格闘家転向を機に角界とは疎遠になったが、〝復帰〟プランが動き始めた矢先の17年4月から闘病生活に入ることに。生前の曙さんが最期に夢見たのは――。

曙さんは2003年大みそかの「K―1 Dynamite!!」(ナゴヤドーム)でボブ・サップ相手に格闘家デビュー。だが、1ラウンド失神KO負けとなり、うつぶせに倒れる姿は「カエル状態」と呼ばれ大きな話題となった。

その後も格闘技では思うような結果を残せなかったが、05年のプロレス参入後は新日本プロレス、全日本プロレスをはじめ各団体から引っ張りだこに。05年度の「プロレス大賞」新人賞&最優秀タッグ賞のダブル受賞を皮切りに、2度の3冠ヘビー級王座戴冠など、数々の功績を残した。

一方で、常に気にかけていたのが、古巣の相撲界だ。もともと曙さんは01年の引退後も、親方として角界に残ることを考えていた。関係者によると、後援会のサポートを得て年寄名跡の取得に動いたことがあったが、さまざまな事情からかなわなかったという。

横綱は引退から5年間はしこ名のまま親方になる資格があるため、東関部屋の部屋付き親方として指導にあたっていたところ、03年11月に日本相撲協会に退職届を提出。直後に格闘家に転向したことから、相撲界とは疎遠になっていた。

それでも曙さんは角界復帰をあきらめていなかった。当時、サポートした関係者の一人は「この先、日本相撲協会に復帰できないので、横綱(曙さん)は『大学で親方をやりたい』と言っていたんですよ。つまり大学の相撲部の監督になろうと。元横綱の相撲部監督はいませんでしたので、なれば史上初でしたからね」と明かす。

候補に2つの大学が挙がり、テレビ局の協力を得て、曙さんが弱小相撲部を育て、相撲協会に力士を輩出する様子をドキュメンタリー番組として制作する計画も動き出していたという。「横綱は陰から、相撲界の発展をサポートしようとしていたんです」(同関係者)。

現在は大学相撲部出身力士が増えており、名門の日大をはじめ、近畿大、東洋大、日体大などが多くの力士を輩出。曙さんはここに風穴をあけようとしていたのだ。

ところがそんな矢先、悲劇が襲った。17年の4月にプロレスの巡業に同行していた曙さんは、試合の日の朝に不整脈の症状が出たため関係者の車で福岡県内の病院へ。治療中に症状が悪化し、30分近く心肺停止状態に陥ったという。

一命はとりとめたものの、記憶障害の後遺症が残り、見舞客を思い出せないこともあった。病院を転々としながらも懸命に治療とリハビリに励んだが、再びリングに立つことはかなわず。7年間の闘病生活の末、志半ばで帰らぬ人になった。

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