スターライト・キッド キッズじゃないキッズからヒール転向、困惑の一年を経て海外でベルト奪取!

【WEEKEND女子プロレス♯7】

写真:新井宏

物心ついたころから、スターライト・キッドの目の前には女子プロレスがあった。母親が女子プロファンで、0歳のときから会場に連れていかれていたという。その団体とは、井上京子率いるNEO。キッドの記憶に残っている女子プロの原点が、「強いタムラ様(田村欣子)」の闘う姿にあった。

生観戦だけではなく、DVDでも女子プロを見まくった記憶がある。会場ではパンフレットも買っていた。ただし、NEOが2010年大晦日での後楽園ホール大会を最後に解散してからは、プロレスから離れてしまう。それでも14年6月1日、久しぶりに後楽園に足を運ぶ機会があった。団体は11年1月に旗揚げしたスターダムで、夏樹☆たいよう(現・南月たいよう=SEAdLINNNG代表)の引退試合だった。これをきっかけにスターダムを調べるようになり、女子プロ熱が再燃した。

自分もプロレスラーになりたいと考えるようになったのは15年に入ってから。ところが、初めてひとりで観戦した同年2・22後楽園で“凄惨試合”と言われた事件が勃発。かなりビビったことは想像に難くないが、「身体を動かすことは好きだしプロレスも好きだから、ちょっとやってみようかな」という閃いたときの感覚を大事にして履歴書を送付、同年4月、スターダムの練習生となった。

写真提供:スターダム

とはいえ、年齢的にはキッズ枠。当時はあの事件を契機に退団者が続出しており、団体としては一人でも所属選手がほしい状況にあった。年齢はキッズで身体も小さい。しかし練習においては一般のレスラー志望者と同じくらいのレベルにあったため、幼いルックスを隠すため覆面レスラーを勧められた。そして10月11日、米山香織、渡辺桃との3WAYマッチにて、正体不明、年齢不詳のスターライト・キッドとしてデビューを果たしたのである。

が、マスクを被っているとはいえ、見た目はどう見ても子どものまま。それでもキッドはリングネーム通りのキッズレスラーではなく、いきなり本戦でリングに上がった。当時はキッズ該当の入門者がもっとも多い時期だったというが、キッドは同世代でも飛びぬけた存在、その後も通常の試合に出場していくことになったのである。

身長はそのうち大きくなるだろう。まわりはそう考えていたかもしれない。が、そこは本人は期待していなかった。とはいえ、背は伸びなくても身体は大きくしたい。トレーニングや食事もそこを意識するようになり、体重は増えていった。が、16年6・16後楽園を最後に欠場。表向きは「受験のため」としていたのだが、実際にはプロレス引退を考えていたらしい。

「自分、すごく鼻血が出やすい体質なんですよ。練習中もだし、試合でも。それで試合中に出ちゃったらどうしようという恐怖心に襲われたりとか。それで(プロレスを)やりたくなくなっちゃって、じゃあ少し休んでみたらとの話になって欠場しました。でも、そのときの自分は復帰する気はなかった。やめるつもりでいましたね」

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写真:新井宏

実際、受験をして、無事、高校に合格した。プロレスがイヤになったから高校に行くことにしたのだ。レスラーを続けていたら進学せずにプロレス一本でやっていくつもりだった。それでも1年後に戻ってきたのは「風香(GM)さんとママの引き戻し(笑)」があったから。結果的にプロレスにカムバックしたことで、学業との両立をしていくことになり、実際に両立できた。鼻血が出やすい体質も完全ではないものの多少は改善したという。高校も卒業したのだから、これはこれでよかったということになるのだろう。

「欠場期間中、もうプロレスはやりたくないと思っていたんだけど、家で筋トレしてる自分はいたんですよね。なので、心のどこかで復帰しようとしてたのかもしれない。実際に練習を再開してみると動けるし、できるから、やっぱり楽しくなってくるんですよね」

さらに復帰前と復帰後では、プロレスに対する意識が変わった。

「学生のときは学業優先で、習い事みたいな感覚があったんですよ。確かに、あのころはプロ意識に欠けてましたね」

写真提供:スターダム

通常の試合に組み込まれても、意識はキッズレスラーだったのだろう。いったんプロレスから離れ、やっぱり試合がしたいという自分に気づいた。復帰してプロレスが楽しめるようになり、18年には初代フューチャー・オブ・スターダム王者に輝いた。21年にはジュリアのワンダー・オブ・スターダム王座に初挑戦。この試合ではジュリアが中野たむとの髪切り戦を控えており、見せしめのためにキッドのマスクを引き裂いた。キッドにはとばっちりだったのだが、これが彼女の心に火を点けた。「負けたくない」「やられたらやり返す」。プロレスに対する意識がさらに大きくなったのだ。マスク剥ぎが、大人への儀式だったのかもしれない。

そしてこの年の6月、キッドはベビーフェースからヒールに転向する。きっかけは試合に負けたためのユニット強制移籍だったものの、STARSに戻る機会を与えられながらも自分自身で拒否、大江戸隊の一員としてやっていく決意を固めたのである。

「ヒール願望? まったくなかった。なかには経験のために一度くらいやってみたらと思ってた人もいるかもしれないけど、私には無理だろう、似合わないでしょって思ってた。でも実際にヒールをやってみたら、望まない形ではあれ、やってよかったなって思ってる(笑)」

写真:新井宏

小さな身体をカバーするのは、「欲望の塊」とも言われる“我の強さ”。これも大江戸隊に入ってから芽生えたものだ。

「自分が完全に黒に替わった日(21年7・4横浜武道館)、(リーダーの)刀羅ナツコがケガをしてしまった。私は大江戸隊に入ったばかりで、リーダーが突然いなくなってどうしようとの気持ちになった。誰が大江戸隊を引っ張るの?って。そのとき、大江戸隊に入った自分が変わらなきゃいけないとすごく感じたことを思い出して、自分がユニットを引っ張らないといけないという意識が生まれた。そこからどんどん欲が沸いてくるようになったんだよね」

その意識が結果にも結び付いていく。8・29汐留では実に8度目の挑戦にして念願のハイスピード王座を初奪取。なかなか王者になれなかった事実を逆手に取り、ベルトに怨念を込め憎しみをぶつけるという、これまでにない王者像を築いてみせた。また、ゴッデス・オブ・スターダム、アーティスト・オブ・スターダム、NEW BLOODタッグ王座を手にしたのも大江戸隊としてだ。

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写真提供:スターダム

ヒールも完全に板についた。が、昨年はキッドにとって納得のいかない一年でもあった。スターダム全体としても、数々の問題が浮き彫りになった。

「体制が変わったりしてスターダムらしくないと言えばらしくない一年だった。なにか(目標が)定まってないような感じがしたし、選手が(リングに)集中しきれない環境にあったと思う。個人的にもなかなか思い通りにいかないし、気持ち的にもあせりが出てきて、ケガにつながった。なんでケガしたんだろうとか、いろいろ考えてしまう年だったな」

一時期は十数名の負傷欠場者が出る異常事態。あいにく、キッドもその中の1人となってしまった。この事態もきっかけとなったか、スターダムから5選手が離脱。しかしキッドは、スターダムで闘っていくことを決意。大江戸隊からは一人の退団者も出なかった。

「自分も(退団を)考えないことはなかった。残るとしても、みんな何かしら考えたと思う。だけどいろいろ考えたときに、自分にはスターダムでまだまだやり残したことがある。こないだ(2・4大阪で)ワンダーのベルトが取れなかったばっかりだし、赤と白(のベルト)をまだ取ってないというのもある。やっぱり、団体の象徴である(シングルの)ベルトを取ってからでないとね。いずれはフリーになったり、退団してほかの団体に行くことがあるかもしれない。でも、いまじゃない。いまの私には、スターダムでやるべきことがまだまだあるから。具体的には白を今年中には巻かないとね。前回が(安納)サオリで4度目の挑戦だった。さすがにハイスピードの8度目より前には取らないと!」

写真:新井宏

そして、現在のキッドには新たなる欲も沸いてきた。それは、海外での試合だ。このインタビュー後、すぐにキッドは渡米し、初めての海外マットを経験した。スターダムが4月4日にアメリカで試合をおこない、キッドも出場。そのうえ、7日にはスパーク女子のリングでビリー・スタークスを破ってタイトルを移動させたばかりの坂井澄江に挑戦、坂井を破り第4代スパーク女子世界王者になってみせたのである。

渡米前には「いままで海外のベルトは視野になかったんだけど、これを機に視野に入れていければ」と話していたキッド。それが突然ベルトを手にし、4・12後楽園は王者としての凱旋試合。団体とともに、キッドの新章も始まりそうだ。

写真提供:スターダム

インタビュアー:新井宏

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