外国出身初の横綱・曙さん死去 相撲道追究した栄光と挫折

1992年5月、後援会の人たちの祝福を受ける曙(C)共同通信社

またひとり、偉大な横綱がこの世を去った。

昨11日、相撲協会は第64代横綱・曙太郎さんが4月上旬に死去していたことを発表。享年54歳だった。

1969年、米国ハワイ州オアフ島出身。日本国籍を取得する前は「チャド・ローレン」が本名だった。

大学ではバスケに精を出すあまり中退。そんな時、同じハワイ出身の東関親方(元関脇高見山)にスカウトされ、1988年3月場所で初土俵。同期は若乃花・貴乃花の若貴兄弟、大関魁皇(現浅香山親方)、小結和歌乃山など、そうそうたる顔ぶれだった。

十両昇進、新入幕こそ貴乃花に先を越されたが、初土俵から18場所連続勝ち越しの史上最多記録を更新。ライバルより先に三役に昇進した。ちなみに曙さんが塗り替えた初土俵からの勝ち越し記録の前保持者は、貴乃花の父である貴ノ花の17場所というのも因縁めいている。

93年に外国出身力士として初の横綱昇進。203センチ、233キロの巨体を武器に、若貴兄弟の壁として立ちはだかった。通算優勝回数は11回。世間では小錦、武蔵丸(現武蔵川親方)と共に「若貴兄弟にとっての敵役(ヒール)」という位置づけだったが、それでも当時の土俵をけん引したことは確かだ。

曙さんは2011年10月の日刊ゲンダイの連載コラム「私の秘蔵写真」に登場。「若乃花と貴乃花がいなかったら、自分はあれほど早く横綱になれなかったと思う」と話していたが、大相撲ジャーナル編集長の長山聡氏は「それは若貴兄弟にとっても同じことです」と、こう話す。

「曙さんがいなかったら、彼ら兄弟横綱も果たして誕生していたかどうか。長い腕を生かした突っ張りで、並み居る力士を吹っ飛ばしていた。当時の力士はみな、そんな曙さんを倒そうと切磋琢磨した。曙さんは相撲道への理解や後進の育成にも熱心でした。特に行司の28代目木村庄之助に師事し、『相撲とは何か』を教わっていました。『横綱は後進を育てるのも役目』と言われ、巡業では若手などに稽古をつけていたのが思い出されます。本当に素晴らしい横綱でした」

曙さんは横綱に昇進した96年に、日本に帰化。当初は親方として力士を育成する気持ちが強かったようだが……。

角界OBが言う。

「01年に引退し、03年までは曙親方として東関部屋で指導をしていた。横綱は引退して5年間はしこ名で親方として協会にいられるからね。ただ、自身の結婚に反対した後援会が解散した影響が大きかった。当時の親方株は億を超える値段。年収1000万円超の親方業だけでは、到底5年間では貯められない。そうした時に頼りになるのが後援会だが、それもない。格闘技の世界に飛び込んだのは、『このまま協会に残っても自分に未来はない』と思ったからではないか」(前出の角界OB)

その後はKー1、総合格闘技と転戦し、プロレスを主戦場としていたが、17年に体調の異変を訴え、緊急搬送。この時、心肺停止の時間が長く、記憶障害が後遺症として残ってしまった。以後は闘病生活が続き、2019年に弟弟子でかつて自身の付け人を務めた潮丸の葬儀に出たのが、公の場に出た最後となった。

誰よりも日本人らしかった横綱に合掌--。

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