「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#37

石垣島警備隊の司令、井上乙彦大佐は、1950年4月7日、午前0時を回って間もなく、スガモプリズンで死刑が執行された。51歳で絞首台に立った井上大佐は、家庭ではどんな人だったのか。夫の死後、妻・千鶴子は、石垣島に慰霊碑を建立していた。井上大佐の遺書に綴られていたのは、家族へのメッセージ。そこにはー。

◆井上大佐の妻が建立した碑

石垣島の桃林寺は、琉球国尚寧王の命により1614年に創建された、由緒ある禅寺だ。山門には、沖縄県の指定文化財になっている仁王像が立つ。ガジュマルなどの大きな木が生い茂る境内の脇に、御影石で作られた碑があった。

井上乙彦大佐の妻、千鶴子が1986年(昭和61年)に建立したという。夫が処刑されてから、36年後のことだ。碑の正面には、聖観音が描かれ、台座には「怨親平等平和祈願」の文字と、井上乙彦大佐の辞世の一首が刻まれている。

“石垣島に逝きしこゝだの戦友の遺族思ひをり最期の夜ごろを 井上乙彦”

◆戦死者とマラリア病没者の鎮魂供養と世界平和祈願のため

碑の裏には、「碑文太平洋戦争末期沖縄先島作戦中優勢なる敵空軍迎撃対空戦闘に奮戦戦没せし石垣島海軍警備隊将士及び戦傷病死者海軍少佐福田太郎治以下二五六名ならびに所在市民マラリア罹病病没者多数の御霊鎮魂供養と世界平和祈願の為怨親平等の聖観音建立寄進す」とあり、石垣島警備隊での死者と石垣島でマラリアに罹患して亡くなった住民も慰霊するものになっている。辞世の句に詠まれている「こゝだ」は、「たくさん」という意味だ。

◆藤中家に送られてきた短冊

福岡県嘉麻市に住む藤中松雄の遺族のもとには、千鶴子夫人から送られてきた短冊があった。碑に刻まれた辞世の句が、夫人の手で書かれている。

井上大佐が裁判前、自分が命令したことを明言しなかったことで、多くの部下たちが死刑を宣告され、最終的に藤中松雄ら下士官も含む6人を巻き添えにしたということが言われていたため、松雄の次男、孝幸さんは、千鶴子夫人と同席した際にそのことを口にしたことがあった。その時、夫人は泣き崩れたという。

◆「貴方はどうか生き残ってください」

部下の死刑を覆そうと嘆願を続けてきた井上大佐の死刑執行が決まったのは、1950年4月5日。死刑囚の棟から連れ出される井上大佐との別れを、冬至堅太郎が日記に残していた。冬至堅太郎は福岡の西部軍事件で死刑囚となり、同じ棟にいた。

(冬至堅太郎の日記) <1950年4月5日石垣島事件七人出発>
「今夜誰か引っ張られる様ですよ」別れの挨拶をしながら来たのは、石垣島事件の司令、井上乙彦氏だ
「いろいろとお世話になりました、いよいよ行きます」と丁寧に頭を下げられる。顔はほんのり赤い。
「石垣島全部ですか?」
「どうもその様です残念ですが止むを得ません」
「そうですか、何れゆく先は一緒です待っていてください」
「いやいや、貴方はどうか生き残ってください」

◆永遠の別れと知らず・・・

この日の朝、井上大佐には次男が面会に来ていた。スガモプリズンでの初面会だ。1947年1月20日の入所以来、すでに3年2ヶ月が過ぎていた。

“ゆくりなく初面会に来し次男永遠の別れと知らず帰りき 井上乙彦”

この歌は、井上大佐の遺書にある。「次男も一人前の立派な男になった姿を見て、すっかり安心しました」と書いている。10日ほど前に、マッカーサーによる最後の審査があり、死刑が確定していた井上大佐は、「今週はあぶない」と感じていたため、次男には「来月の千鶴子の面会は望みない」と伝えていた。

(井上乙彦の遺書「世紀の遺書」より)
「私の魂は天にも浄土にも行きません。愛する千鶴子や○彦や○彦や○子といつも一緒にいるつもりです。今日までは牢獄に繋がれて手も足も出ませんでしたが魂がこの身体から抜け出せば何時でもまた何処へでもすぐ行ってあなた達を助けることが出来ます。助けが入用な時やまた苦しい時はお呼びなさい。何時でも助けになりますから。私は齢五十一歳になって人生五十を過ぎて、命の惜しい時ではありません。また生きていても最早や米食虫に過ぎぬと思う体です。然し愛する妻子が戦犯の汚名で死刑された者の家族であると言う事を考えると可哀想です」

戦犯の家族として白い眼でみられることを心配しながら、自分の死を境に気持ちを切り替え、再出発の覚悟をするようにと書いている。そして、自分のためには、葬式、告別式などの儀式や、墓も不用としている。

◆今日を除けば「お礼の申上げ様もない感謝の生活」

(井上乙彦の遺書「世紀の遺書」より)
「千鶴子は幸福な家庭に人となり、結婚生活の後半は忍苦の生活でありました。私の力の足らなさと運命の悲しさを今更とやかく言っても仕様がない事です。せめて三人の児を立派に完成する事によって後生の慰めにして下さい。入牢までの二十年は振りかえって見れば夢の様です。苦しかった事も今となっては皆楽しい思い出となって浮んで来ます。然し終戦後は父に逝かれ、母代りの伯母を失い、今また私のこの悲運を諦めよと簡単に言って片付けるには重すぎると思いますが、私達の身に持って生れた業だと思はねばなりますまい。私には今日を除けば、家庭生活はお礼の申上げ様もない感謝の生活でありました。私の足らなかったこと、至らなかった所を今思ひ出して愧(はじ)入っています」

遺書の中で、ここまで妻に感謝の意を述べて、しかも「足らなかった、至らなかった」と書いた井上大佐は、家庭生活では優しい夫であったのだと思う。

そして井上大佐は、4月6日付けで、最後に藤中松雄ら自分以外に絞首刑となる6人の嘆願書を書いて、筆を置いたー。
(エピソード38に続く)

*本エピソードは第37話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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