美少女イラストは女性に対する「危害」なのか?“性的な表現”やヘイトスピーチの規制が難しい理由

性的な表現は、女性にどのような影響を及ぼすのだろうか(primipil / PIXTA)

ネット上では「女性」に関する表現が問題となりがちだ。

長年続く「フェミニスト」と「オタク」の対立

今年1月、三重県を中心にバス事業を運営する三重交通が運転士の制服を着た若い男女のキャラクターを作成して名前を公募したところ、男性キャラに比べて女性キャラは腰を曲げたポーズをしておりボディーラインも強調しているとして、「性的な描き方をしている」と批判された。

2月には、東京藝術大学大学美術館で開催される予定の「大吉原展 江戸アメイヂング」展の公式サイトが更新され、「エンタメ大好き」 「イケてる人は吉原にいた」などコピーや展示内容が明らかになったことから、「人身売買の歴史をエンタメ化」「女性の人権が侵害されてきた歴史を軽視している」といった批判が巻き起こった。

これまでにも日本のインターネットでは、性的な創作物や表現を批判するフェミニストやフェミニズム支持者と、創作や表現の自由を擁護するオタク層とが、激しく対立し続けてきた。

2014年に「人工知能学会」の学会誌の表紙に採用されたイラストをめぐって議論が起こったことを振り返ると、対立は10年以上も続いている。

AV(エーブイ)人権倫理機構の代表理事を務め、「国会議員の科研費介入とフェミニズムバッシングを許さない裁判」(フェミ科研費裁判)に意見書を提出したこともある、「表現の自由」とフェミニズムの両方に詳しい武蔵野美術大学の志田陽子教授に話を聞いた。

“自由”について考える基本となる「危害原理」

──自由に関する議論では、「他者に対して危害を及ぼさない限り、あらゆる自由が認められるべきだ=他者に危害を及ぼす自由は認められない」とする「危害原理」が登場することが多くあります。

志田教授:危害原理はイギリスの哲学者J・S・ミルが提唱した考え方ですが、日本の法律にとっても非常に重要なものであり、法律に携わる人は大なり小なりこの原理を意識しながら思考します。

一方で、表現の自由という問題に関しては、そのまま「危害原理」を適用することはできません。危害原理と、人格権などのさまざまな権利の発展を組み合わせると、表現の自由がものすごく狭められる結果がもたらされてしまいます。そのため、表現の自由と他の権利がぶつかった場合には、双方を相対化して調整することになります。この調整のための理論が、裁判でさまざまに形成されてきましたし、学者にとっても「腕の見せ所」となります。

たとえば「受忍限度」という考え方があります。「その表現によって不愉快になった」「差別的な言論によって傷ついた」という訴えは、それぞれが真剣な訴えであると思いますが、表現者に差し止めや損害賠償などの法的責任を負わせるほどの問題かどうかはケースバイケースで、表現の悪質さと、「耐え難い」と考えている人が実際にどの程度の被害を受けているかで判断します。

表現が不法行為とされて制限されるのは、それに相当するだけの実害性が認められる場合に限られます。心理的被害がゼロとは言えないが「受忍限度」の範囲内、と言える場合には、表現者に法的責任までは負わせない。こういった判断していくことで、表現の自由を守るために「危害原理」を修正しています。

ある表現が人格権の侵害に当たるかどうかを判断するとき、このように受忍限度を超えない限りは法的責任に問わないという考え方が取られていますが、ただ、法の外側で、対話と知恵による解決がはかられることもあります。表現者が苦情を参考にして表現を修正したり、出し方を工夫したりするような場合です。

「性的な表現」は女性に対する「危害」なのか?

──どのような事柄を「危害」と見なすか、には議論の余地があると思います。たとえば美少女イラストや水着のグラビア・広告などの性的な表現について「性的な表現を目にした女性は尊厳が傷つけられたり抑圧を感じたりすることで危害を被る」と主張されることがあります。

志田教授:アメリカの法学者キャサリン・マッキノンは、性的な表現は「若い女性とはこのようなもの[男性に媚びる、男性にとって都合のいい存在]として存在すれば褒められる」「若い女性はこのように生きるべきだ」という「メッセージ」を社会に共有させることで、女性が本来持っている可能性を奪う、と論じました。日本で「わいせつ」として規制されているタイプの性表現は、ここでは規制すべき関心事ではなく、規制すべき本当の問題はこうした差別構造を固定してしまう作用を持つ表現だ、と。

本来なら、女性も社会や経済・政治の世界で自分の能力を発揮して活躍することができたかもしれない。しかし、公共空間に性的な表現が存在することで女性が萎縮させられて能力を発揮できない社会が続いてしまう、というのがマッキノンの議論です。

アメリカでは、すくなくとも法律の世界では、マッキノンの議論に基づいた規制法は憲法違反と判断され、採用されませんでした。しかし、カナダの法律では、ある程度は考慮されています。イギリスでもこの発想が法律に反映されているように思います。

ある女性にとって、グラビアやイラストなどの性的な表現が、自分の社会進出を妨害する心理的な障壁になってしまっている、という可能性は十分に考えられます。そのような訴えを「好みの問題だ」 「“お気持ち”に過ぎない」と軽んじるべきではありません。

「性的な表現が不快である」と主張している人の感じている「不快さ」が社会のマジョリティには理解されづらい、という側面もあります。訴えを深刻ではないかのように茶化したり戯画化したりする人も多いですが、そのような行為は問題を見誤っていると思います。

訴えがあったら、まずは「本人にとっては真剣な訴えだ」と認めて、真剣に受け止めるべきです。「感情の問題だから法的判断にはなじまない」と切り捨てる、というのも間違っています。法的に取り上げるべき問題提起が含まれている、と考えるべきでしょう。

その一方で、表現の自由との適切なバランスをとるために、「受忍限度」を超える被害があると言えるかどうかを考える必要も出てきます。

ミクロな問題とマクロな制度との“ズレ”

志田教授:ここには、個人が受けた被害を救済する必要があるというミクロな問題と、言論空間を健全に保つために表現の自由を守る必要があるというマクロな問題との「ズレ」が存在します。

ミクロのレベルでは、表現によってつらい思いをした人の訴えを、真剣に聞くべきです。しかし、個々の問題はケースバイケースで、被害性、表現の害悪性の深刻なものとそうでもないものとがあります。だから裁判でケースバイケースの解決を図るわけです。このとき、被害者がいちいち訴えなくてもすむように、法律で先回りをして表現規制をするというマクロなレベルでの解決をしようとすると、落としどころを見つけるのは困難になります。すべてのケースをもっとも深刻なケースに合わせて規制しようとすれば、表現の自由が制約され過ぎてしまいます。差別表現の問題について考えるときには、このジレンマがどうしても存在する。

こうした問題について参考になるのが「アイヌ肖像権裁判」です。アイヌの人々が「自分たちの生活の様子や民俗文化について紹介してもらえる」と思って民俗学者の調査に協力して写真の撮影を許可したところ、実際にできあがった本は昔通りのステレオタイプを強調する差別的な内容であり、アイヌの人々は屈辱を感じて、裁判を起こしました。

裁判の結果、民俗学者は出版を取り下げて、アイヌの人々と和解した。これは批判が出ることで表現者が問題に気づき、対応をとった、つまり「言えばわかる」という事例でした。

もしも表現の自由を問答無用で禁止したら、差別をした側も自分の言葉のどこが差別的でどのように人を傷つけたか、ということを考える機会がないまま、心にわだかまりを残すことになるでしょう。

表現の自由を守ることで、差別表現で傷ついた人が「私は傷ついた」と言う自由も守られることになります。言われた側はその言葉を受け止めて再考する。言論の自由市場がまともに機能するというのは、そういうことだと考えます。

「表現の自由」を専門にする憲法学者の志田陽子教授

「ヘイトスピーチ」規制の考え方

──ヘイトスピーチの問題についてはどう考えるべきでしょうか。

志田教授:ヘイトスピーチの場合には、そもそも相手を傷つけることが目的になっている。「言えばわかる」どころか、被害者が傷ついたと言ったらますます攻撃が激しくなることもあるわけです。

日本のヘイトスピーチ解消法は、かなり狭い範囲に問題場面を絞った対症療法的なもので、ヘイトスピーチの本質にアプローチできていないのでは、という疑問はあります。日本に適法に居住している外国人に向けて「出ていけ」と言うことだけがヘイトスピーチなのではなく、もっと広く、社会的に不利な立場にいるマイノリティを言葉で攻撃していたたまれなくさせること、単純に言えば「いじめ」がヘイトスピーチです。

法律でも、「相手を傷つける」ことを目的とする言説をヘイトスピーチと定義することで先に紹介した「アイヌ肖像権裁判」のような「差別的な表現」と分けて、後者は規制しないが前者は規制もやむなし、という線引きをすべきだと思います。

性的なイラストなどについては、ほとんどがアイヌ肖像権裁判と同じように「言えばわかる」ケースだと考えます。そういったイラストは女性を傷つけることを目的にしているのではなく、むしろイラストを見た人を喜ばせることを目的にしていますよね。このような場合には言論の自由市場のなかで、対話によって修正することができます。

しかし、性的な表現が「相手を傷つける」という目的で使われることもあります。私の知り合いの若い女性の政治運動家は、性的な画像にその人の顔を貼り付けるというコラージュ画像を作られて、ネットに拡散されました。

このような嫌がらせ目的の性的コラージュ画像が拡散されたりすると、やられた人は、ネット上で言論活動をしにくい心理状態に置かれます。ヘイトスピーチと同じような沈黙強制の作用のある表現です。こういった表現については、対話で修正することも難しいでしょう。こうしたタイプのものは、法律による規制が必要だと思います。

ひとくちに「女性を性的に描いた」表現としても、その悪質性はどの程度であるかどうかを見ながら、まずはケースバイケースで対応できるか考え、それが無理なら法規制が必要だという議論に進むわけです。

──ヘイトスピーチかそうでないかを判断するうえでは、表現を発する側の「動機」や「意図」が重視されるのでしょうか。

志田教授:個人の表現を法によって規制する、というのは非常に強い手段です。こういった手段を用いる際には、表現者の意図も判断要素に入れるべきだと考えます。

一方で、企業におけるハラスメント問題などにおいては、加害の意図がなかったとしても問題にすべき場合があります。企業には職場環境を良好に保つ「責任」があるため、加害者側に悪気がなくても被害者がハラスメントを受けたと感じたなら適切に対応すべきです。

「ステレオタイプ」が女性に及ぼす影響

──個々の表現の悪質性は低く、一般には受忍限度の範囲内と言えるものであっても、街中や公共の場で何度もそういった表現を目にすることで、個々人に被害や抑圧の経験が「累積」していく、ということが問題視される場合もあります。

志田教授:基本的に、法律とは人々の「内面」には踏み込まず、社会の外面に現れた事柄を判断の対象にするものです。

一方で、表現が人々に与える心理的な影響や、表現規制が人々に与える萎縮効果といった問題を考えるなら、内面への作用を無視することはできません。表現の影響が蓄積されることで、萎縮的な人格にさせられる、という場合もあるでしょう。

私も経験がありますが、女性は家庭的にふるまったら褒められる一方で、政治的な発言をすると「女性として好ましくない」と言われやすい文化的環境がありました。10年くらい前までは「そんなこと言っているから結婚できないんだ」「そういう話題で男に勝ってしまうと孤独死コースが待っているよ、女の孤独死はみじめだよ」とからかわれることも多かったですね。

個々の発言は雑談のなかで出てきたものであり、悪意がないとしても、色んな人に色んな場面でそういったことを言われ続けることで、私のなかに「積もっていく」という感覚は確かにありました。

幸いにして、私は憲法研究者という職業を手に入れ、「ここでひるんでいては仕事にならない」という強い意志を持つことができています。しかし、研究者になっていなかったら、こうした雑談の「蓄積」が内面化されることで私の人格も影響を受け、女性というもののステレオタイプ、いわば「型」に、自らはまっていったかもしれません。

ですから、マッキノンが言うような、男性社会にとって都合のいい、魅力的な「女性」の表象が個々の女性の内面にも社会にも影響をもたらす、という作用は確かにあると思います。

しかし、法律によってそのような表現を規制することは難しいでしょう。

「何が魅力的であるか」という表現は表現者の自由に任せるべきですが、一方で、そのような表現が積み重なると同調圧力や圧迫として作用する。……こういった問題は、一つには、規制よりも「モア・スピーチ」、つまり「それは違う」という対抗言論によって解毒していくものだと思います。もしも、ある人が「それは違う」と言えない状況に追い詰められ、実質的に「表現の自由」を奪われているとしたら、「表現の自由」を回復するために法の力を使う必要もあるでしょう。

次に、「表現が発表されている場が公共空間であるか否か」によって判断すべきだと思います。公共空間にある表現は、政府や自治体がその表現を公的なものとして認めている、ということになります。したがって、女性やマイノリティへのステレオタイプを助長させるような表現や不適切な性的表現は、すくなくとも公共空間に採用することは望ましくない、という形で制約をかけていくことになるでしょう。企業内の仕事空間も同じです。企業内の仕事空間で、働く人をいたたまれなくさせるような性的なポスターが貼られている、といったことを「環境型ハラスメント」と言いますが、企業経営者は、そうした環境型ハラスメントをなくしていくハラスメント防止対策責任を負っています。

一方で、芸術表現として美術館などしかるべき空間に置かれている作品の場合は、観る人がそれをわかって観に来るわけですから、そこを同じ基準で制約すべきではない。この思考の仕分けが必要です。

志田陽子
武蔵野美術大学教授。博士(法学)。憲法理論研究会運営委員長(2022-2024)、全国憲法研究会運営委員、日本科学者会議共同代表、日本女性法律家協会・憲法問題研究会座長。芸術・文化政策に関連する憲法問題の理論研究を続けながら、表現の自由と多文化社会の課題に取り組んでいる。著書に『表現者のための憲法入門 第2版』(武蔵野美術大学出版局、2024年)、『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)など。

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