引き分けはいつから「勝ち点1」になったのか?(2) 英国リーグ「低迷」と人気選手「0円」改革

現在、大人気の英国プレミアリーグだが、かつて低迷した時代があった。撮影/渡辺航滋(Sony α-1使用)

サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は「引き分けは負け同然?」と感じさせる現代のサッカーのからくりについて。

■深刻な困難に直面していた「英国プロリーグ」

1990年にイタリアで開催されたワールドカップでは、守備的な戦術をとるチームが多く、多くのファンを失望させた。このままでは、得点の少ない退屈な試合ばかりになり、最大の収入源であるテレビからそっぽを向かれてしまう。なんとか得点を増やし、エキサイティングな試合を増やさないと大変だ――。ということで持ち出されたのが、「3-1方式」だったのである。

大会の半年前、1993年の12月にアメリカのラスベガスで開催された理事会で、ブラッター事務総長はワールドカップ・グループステージでの「3-1方式」を提案、可決された。ブラッター事務総長に強くこの制度の導入を薦めたのは、イングランド・サッカー協会だった。イングランドでは1981/82シーズンからプロリーグでこの方式を導入し、「成功」と評価されていたからだ。

1980年を迎えた頃、イングランドのプロリーグ(1~4部)は深刻な困難に直面していた。イングランドのプロサッカーは第二次世界大戦後、平和の到来とともに人気が沸騰し、1シーズン約2000試合で4000万人、1試合平均2万人というファンを集めていた。しかし、その後の社会の変化、何より生活の向上、テレビなど他の娯楽が増えたことなどにより、サッカースタジアムから足が遠のき、1970年代末にはほぼ半減していた。

■「退屈な試合を減らすには」辿りついた答え

長引く不況、老朽化したスタジアム、劣悪な観戦環境、暴力的な観客(フーリガン)、入場料や交通費の値上げ、そして何よりも、退屈なプレー…。1980年10月にリーグクラブの会長はバーミンガムに近いソリフルという小さな町に集まり、将来のビジョンを語り合った。だが、当時のこうした人々には、テレビマネーの導入も、フーリガンへの対策についても、何のアイデアもなかった。試合をテレビ中継すれば観客がさらに減ってしまうというのが当時の常識だったし、フーリガンに対しては完全にお手上げ状態だった。彼らの想像力の範囲内にあったのは、「退屈な試合をどうしたら減らせるか」という点だけだった。

その1か月ほど前の試合後のある監督のコメントが大きな話題になっていた。超守備的な試合をしてなおアーセナルに0-2で敗れた試合後、ストーク・シティのアラン・ダーバン監督は、記者の批判的な質問に応えてこう語ったのだ。

「娯楽を求めているのなら、ピエロでも見に行くべきだ」

■引退した人気選手が提案「経費が必要ない」改革

なんとか「退屈な試合」を減らそうと考えた彼らに示されたのが、「作業部会」のメンバーだったジミー・ヒルが提案した「3-1方式」だった。

それまでの勝ち点は、「2-1方式」であり、「勝利に2、引き分けに1」の勝ち点が与えられていた。強豪とのアウェーでの引き分けは十分に価値のあるものとされ、ダーバンのストーク・シティのような考え方は、監督がどうコメントするかに関係なく、当時はごく一般的だった。それを勝利のために戦わせるには、勝利の価値を上げ、引き分けの価値を相対的に低くするのが一番というのが、ヒルのアイデアだった。

ヒルは第二次大戦後のフラムの人気選手で、引退してからコベントリーで監督も務めたが、39歳でテレビ界に身を投じ、人気コメンテーター、あるいはキャスターとして活躍していた。そしてサッカー界のさまざまな改革にアイデアを出していた。そんなヒルにとっては、「3-1方式」は、彼(2015年に逝去)がサッカー界に残した最大の足跡だったかもしれない。

「『3-1』にすると、リードしているチームは、引き分けに持ち込まれては大変と、リードを守るために、より守備的になるかもしれない」と、アーセナルのテリー・ニール監督が懸念を表明したが、クラブの会長たちは、何よりもまったく経費を必要としないこの案に賛成し、翌シーズンからの導入が決まった。

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