『変な家』のヒットにみる“ホラー映画”としての潮流と現代性 賛否両論の意義を考える

上映5週目に突入する映画『変な家』が、国内興行収入ランキングの首位をキープしている。YouTuberである雨穴による小説『変な家』を元にし、間宮祥太朗が主演を務める本作は、原作をベースにしているがオリジナルな描写や展開が話題の作品。しかしその話題性は決してポジティブなものに限らず、いわゆる賛否両論の声があがっている。参考程度に鑑賞者が作品に点数をつけられる映画サイトを確認すると、Filmarksでは3.1、映画.comでは2.4と平均以下の数字。つまり言い換えると、本作は「決して評価は高くないけどみんなが観たいヒット作」ということになる。

ちなみにこの手の作品は決して珍しくない。そして考えられる低い評価の原因が、ヒットした理由でもあるのが興味深い。それは原作が「ミステリーホラー」だったのに対し、映画版で「ホラーミステリー」にジャンルを書き換えられていたことである。もちろん、ヒットの要因の第一に掲げられるのが100万部突破した原作の人気であることに違いないが、筆者としてはそこから独自の方向(ホラー)に舵を切った映画版が“ホラー映画としてヒットしている”点に着目したい。そこに、いま流行るホラー映画として何か潮流はあるのか。

※本稿は『変な家』の結末を含むネタバレが含まれます。

・“思ったより怖い”『変な家』の演出

本作の第一印象は、自他ともに「思ったより怖かった」という感想が多いように感じる。無理もない。ホラー映画慣れしている筆者でさえ、雨男(間宮祥太朗)が自宅のアパートで奇襲に遭うシーンや、片淵家のおばあちゃんが「ヒィ!」と声を荒げた瞬間、飛び上がってしまった。実際、他の人も飛び上がっていたが、劇場でホラー映画を観る時のあの一体感は嫌いじゃない。あと何より、仮面のビジュアルが怖すぎる。柚希(川栄李奈)が訪ねた母・喜江(斉藤由貴)の家から仮面が出てきたシーンで、明るくじっくり見せつけられたのは勘弁してほしかった。本作はとにかく美術チームが素晴らしく、それは映画クライマックスに登場する“左手祭壇”のおどろおどろしさにも表れている。見えない演出はされていたものの、あれほどハッキリ人体切断描写がある映画だとも思わず、鑑賞中に何度か本作のレイティングを心配してしまったほど。ミステリーは大丈夫だけど、ホラーは苦手という観客にとっては、もしかしたら辛いサプライズだったのではないだろうか。

本作の恐怖演出は凝っているというか、“てんこ盛り”だ。序盤の見取り図を巡る、「意味がわかると怖い系ホラー」から、ジャンプスケア、しまいには近年とにかくJホラー界隈で人気な「村系ホラー」の要素を取り入れている。特に「家」に着目した作品として、家に侵入する際のPOVショットは臨場感に溢れていて“知らない人の家の居心地の悪さや気持ち悪さ”みたいなものがうまく捉えられている。これは最近のJホラーだと『みなに幸あれ』でも効果的に映されていた要素で、今後もこういうものが増えていきそうな予感がする。また、個人撮影という形によって、原作のYouTube的な雰囲気も組み入れられていた。

そして映画の内容としては終始「ヒトこわ」であるのに、途中で幻覚を使った心霊ホラーをやったり、妄想シーンに登場する子供を使った化け物ホラーをやったり、ゴア描写もあるなど恐怖演出が本当に手広い。それゆえに、原作が持つミステリー要素よりホラーとしての色が優ったのは当たり前のことだろう。加えて、読書に際して生まれる「想像」というプロセスや小説が持っていた“答えが出ない故の不気味な後味”が映像化されることで省かれ、一つの答えとして映されてしまっている点も、原作のエッセンスが失われている要因だ。

原作からの変更点として大きく挙げられるのが、後半の片淵家のシークエンス。「左手供養」が始まった歴史背景に少し違いがあったり、実際に家に踏み込んで「怖い間取り」を活かしたかくれんぼをしたりと、これまたアクション要素高めのホラーに味付けされている。しかし原作と共通して描かれる恐怖の対象が片淵家の人間であることには変わらない。それどころか、映画では映像的なボリューム感と迫力を出すために、片淵家の分家など親戚の類が何人も登場し、彼らだけで村……大人数の“共同体”としてのインパクトが強まっている。ここが一つ、本作が今の若年層に向けられたホラーとして重要な点のように感じる。

・個の奇人や幽霊よりも、分かり合えない人間の集団に対する怖さ

例えばJホラー黎明期だった80年代後半から平成初期にかけてカテゴリとして多い印象があるのは、『リング』を筆頭とする幽霊ものや『学校の怪談』などの怪談・怪奇もの、そして『本当にあった怖い話』や『ほんとにあった!呪いのビデオ』などの実録ものである。つまり恐怖の対象は何者かに殺害された死者の怨恨や、都市伝説など実態の掴めないものが多く、特に猟奇的な殺人事件が増えた平成初期の世相が反映され、『呪怨』のような幽霊系でも徐々にえぐいものが増えた。

その次に流行ったのが、怨霊そのものではなくそれを生み出した人間……つまり殺人鬼やサイコパスを恐怖対象とした「ヒトこわ」である。もちろんここにも、世間を震撼させた猟奇殺人やストーカーなどの事件の存在が反映されていると感じる。自分とは全く違う倫理観をもつ、ヤバい人間……その“分かり合えなさ”に対する恐怖が、ホラー作品の中で大きな存在感を発揮していた。しかし、当時の作品で特徴的だったのは恐れる対象が“個人”だったこと。中でも流行った印象だった『トリハダ~夜ふかしのあなたにゾクッとする話を』(フジテレビ系)などをとっても、隣人だったり1人のサイコパスだったり、そこに描かれていたのは“個”なのだ。相手の背景は何もわからない。画面の中で描かれるのは怯える主人公の様子ばかりで、恐怖対象がどんな人間なのか、何を考えているか一切わからないように演出されていた。それは“わからない方が怖かった”からだ。

しかし、今の時代はどうだろう。SNSネイティブ世代が増えた現代、彼らに限らず我々みんなが「あの頃は何を考えているのかわからなかった怖い人」の実態を、SNSを通して得やすくなっている。X(旧Twitter)などで相手がある程度どんな人間かわかるのだ。普段どんな思考を抱いているかに限らず、好きな食べ物や趣味まで見えてくる。自分と同じように普通に生活している。それでも、一切理解できない人たちがいること。そして以前は“個”だった彼らが、お互いをSNS上で見つけ合い、集団化すること。この映画に出てくるように、自分にとってあり得ない価値観を持っている人がいても、彼らは互いに同じ価値観を共有していて、支え合っている。その集団化によって“分かり合えなさ”に対する恐怖に拍車がかかるのだ。彼らが共同体となり、自分自身が異物になることへの恐怖や誰かが課した理不尽なルール(しきたり)への抵抗感が「村ホラー」というジャンルに顕現している。この時代とともに移り変わる恐怖の正体を実はしっかり押さえている点で、『変な家』は、単なる恐怖演出の玉手箱に止まらない、現代的なホラー映画としてヒットしているのではないだろうか。

とはいえ、特にクライマックスでは一番緊迫感があるはずのシーンで間延びしたやり取りを見せられたり、主人公が意味のわからないことを言い出したりするなど、やはり映画として手放しに褒めることが難しい作品ではある。特に間宮祥太朗は良い演技をする俳優ではあるが、雨男というキャラクターの輪郭が本作ではぼんやりしていて、初対面の柚希をいきなり家にあげたり(原作ではちゃんと警戒してカフェで会うなど整合性が取れているのになぜ変えたのか)、スタンスがうまく描かれなかったりするせいで、映画を観終わったあとでも「この人どういうキャラなの?」という疑問が残り続けてしまうのはもったいないと感じた。

しかし川栄李奈は相変わらず良い演技をするし……と、やはり良いところも悪いところもあるのだ。ただ、その二面的な感想を若年層のオーディエンスが積極的に話していること自体に私は価値を感じている。「評価点数が悪いからお金を出すのももったいないし、観ない」と遮断することだってできるものを、怖いもの見たさではありつつみんなチケット料金を払って自分の目で確かめているから。そこで生まれる議論に、今後の日本映画の未来はあるだろう。だからこそ、賛否両論の国内作品が4週連続1位という結果に注目すべきなのだ。

(文=アナイス)

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