『光る君へ』道隆・井浦新が強行した中宮/皇后問題の本質と清少納言・ファーストサマーウイカの道長ぎらい

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

前回の『光る君へ』のメイン内容は「世代交代」についてでしょうか。父・藤原兼家(段田安則さん)の逝去を受けて、嫡男・道隆(井浦新さん)が摂政の地位を継ぐことになりました。一方で、安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)には「次なる者も長くはあるまい」という予言をされていますが、史実の道隆は、井浦新さん演じる粛々としたタイプではまったくなく、思慮が足りない大酒飲みの陽気なおじさんで、わが子を見境なく昇進させ、ほかの公卿たちから嫌われても平気という困った御仁でした。

ドラマでも嫡男・伊周(三浦翔平さん)が17歳の若さで蔵人頭(くろうどのとう)という役職に抜擢されたことを、藤原実資(秋山竜次さん)たちが苦々しく見守るという描写がありましたね。

また前回は、わが娘の定子(高畑充希さん)を「(一条天皇の)中宮になしたてまつる」と道隆が宣言し、ほかの公卿たちから反発を買っていました。

しかし、一条天皇と仲が良い定子を、「天皇の正室」である中宮にすることがなぜそんなにマズかったのか。「前例がない」というドラマ内の説明だけではよくわからなかったかもしれません。

中宮が「天皇の正室」という意味で使われるようになったのは、10世紀後半くらいからです。もともと「中宮」が「三后(さんこう、または、さんごう)」――太皇太后、皇太后、皇后という3人の天皇の正妃の総称だった時期もあるのですが、わが国で使われるようになったのは、8世紀の聖武天皇の御代だとされています。

その当時、“天皇の生母だが皇后の位を授けられていない女性”を「皇太夫人(こうたいふじん)」と呼びましたが、その別称が「中宮」でした。しかし、平安時代初期の醍醐天皇の御代以降、それに該当する女性はおらず、いつしか中宮=皇后という意味になっていたのですね。もちろん、皇后=中宮なので、ひとりの女性のことを指しています。

しかし、ここがポイントなのですが、一度中宮の座を得た女性がいると、その方が皇太后になるか、亡くなるかしないかぎり、そのポストは空かないので、別の女性が中宮になることはできないのです。

すでにこの頃、一条天皇から数えて二代前の円融天皇の中宮だった藤原遵子(中村静香さん、町田啓太さん演じる藤原公任の妹)が健在でした。皇太后は(道隆の妹、道兼・道長の姉にあたる吉田羊さん演じる)藤原詮子、そしてドラマには未登場のようですが、一条天皇の三代前の冷泉天皇の中宮で、現在は太皇太后になっている昌子内親王がいて、三后すべてが揃った「フルハウス」の状態なので、一条天皇と定子がいくら仲睦まじくても、定子を中宮にできる余地などなかったのです。

しかし、道隆は定子を中宮の位に就かせたい一心で、本来は中宮=皇后だったのを、中宮と皇后は別にするという無理やりな解釈を行いました。そして、すでに宮中を退き、兄・藤原公任の屋敷で静かに暮らしている藤原遵子を、円融天皇の中宮ではなく、皇后ということにしたのです。

しかし、この「中宮と皇后は同一の女性ではない場合もある」という先例を道隆が作ってしまったがために、道隆が亡くなり、伊周が花山院(本郷奏多さん)との間に不祥事を起こし(ドラマで触れられるでしょうから今は話しません)、後ろ盾を失った定子は、道長(柄本佑さん)の野望によって中宮の位をとりあげられ、皇后にされることになりました。

「中宮がよくて、皇后のほうがダメ」というわけでは本来ないのですが、宮中を退き、影響力などなくなっていた藤原遵子が皇后になった先例が世人の記憶に新しい中、定子は天皇の熱愛の対象=中宮ではなく、天皇の形だけの正室=皇后というイメージのポジションに押し下げられてしまったのですね。

そして定子の代わりに一条天皇(塩野瑛久さん)の中宮になったのが、道長の愛娘・彰子で、彼女こそが紫式部(吉高由里子さん)が女房(侍女)としてお仕えすることになった女性だったのです。

中宮/皇后問題についてのお話が長くなってしまったのですが、夫や子どもを捨ててまで、「己のために生きることが他の人の役にも立つような、そんな道を見つけたい!」と熱く「志」を語っていた清少納言(ファーストサマーウイカさん)についても少しお話しておきます。ドラマではトルコの軍楽みたいな劇伴が流れ、すんごい戦闘ムードでしたね。

前回はドラマの清少納言=ききょうのキャラがはっきりと見えてきた回でもありました。『光る君へ』の紫式部が人の気持ちを考えてしまう心優しい女性として描かれるぶん、清少納言が天衣無縫の天才少女のように描かれるのは仕方ないことかな、とは思います。また、藤原道長がドラマでは「正義の味方」として描かれすぎているので、これが史実の清少納言の「志」と、ドラマのききょうの「志」のズレにもつながっているのかな、と思っています。

筆者の個人的な解釈なのですが、清少納言が最初の夫・橘則光と離婚したのは、やはり彼女の「志」が影響しているのですが、史実における離婚理由は、清少納言の藤原道長という男への嫌悪だったのではないか……と思われるのですね。

天元4年(981年)、清少納言は橘則光と結婚し、則長という息子も授かっていましたが、早い時期に離婚しています。一説に橘則光が無粋な男だったので別れたともいうのですが、実際は、清少納言は彼が道長の部下のひとりであることがどうしても嫌で、距離を置くしかなかったのではないか、と想像されます。史実の道長は、すでにお気に入りの部下を試験に合格させるために、試験官を拉致監禁するなど相当な事件をいくつも起こしていました。

また、そのうち詳しくお話することもあるでしょうが、史実の道長は正義の味方どころか、気に食わない人物がいれば、自分の手は汚さず、腹心の部下を使って拉致監禁したり、ひどい場合は殺しても平気というかなりダーティな人物でした。

清少納言の実家の清原家はおそらく藤原道長派で、兄・清原致信も、俗に「道長四天王」のひとりだった藤原保昌という人物の部下となり、道長派の末端に連なっていたのですが、保昌の命でかかわってしまった殺人事件への報復を受け、寛仁元年(1017年)3月、自宅にいたところを白昼堂々リンチ殺人されたといわれています。

その一方で、清少納言という女性は、父や兄が道長派であったにもかかわらず、自分は一貫して道隆の娘である定子やその兄弟に忠誠を誓っていました。おそらく、やはり彼女が「道長ぎらい」だったのではないか……と想像されるのです。先述の通り、道隆は優れた政治家でもなんでもないのですが、「道長よりマシ」という感覚だったのでしょうか。「父親や兄と私は違う! 私は自分が信じた道を行く!」というのが史実の清少納言の「志」だったような気がしています。

とはいえ、ドラマの天才芸術家タイプのききょうも嫌いではないので、今後、彼女がどのように描かれていくのか楽しみに見守りたいと思います。

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