Jリーグとレヴァークーゼンでプレーした5名

バイエル・レヴァークーゼンがクラブ創設120年目にしてブンデスリーガ初制覇を果たした。

11連覇中だったバイエルンの12連覇を阻止し、またシャビ・アロンソ監督のもと5試合を残して無敗での優勝は歴史に残る快挙というほかないだろう。

今回はそんなレヴァークーゼンに所属し、なおかつJリーグでもプレーした経験を持つ選手たちをご紹介しよう。

細貝萌

レヴァークーゼンへの在籍:2011~2013

直近でレヴァークーゼンに所属した日本人選手は細貝萌だ。

前橋育英から浦和レッズでプロ入りした彼は、五輪代表を経てA代表にも選ばれるようになったことで強く希望していた海外移籍に踏み切る。その行き先がレヴァークーゼンだった。

ただ当時のチームにはバラック、ビダル、ロルフェスら世界的な選手が中盤に名を連ねており、細貝は契約してすぐにアウクスブルクへ貸し出されることに。結局レヴァークーゼンでは1シーズン17試合のみの出場に終わっている(出場は主に左サイドバックだった)。

その後はトルコ、タイなどでのプレーを経験し、37歳になった現在は地元のザスパ群馬に所属している。

ロブソン・ポンテ

レヴァークーゼンへの在籍:1999~2005

卓越したテクニックと創造性で浦和レッズの英雄となったブラジル人MFは、レヴァークーゼンでも確かな足跡を残した選手だ。

国内のグアラニーから1999年に渡独。ブンデスリーガで6シーズンに渡ってプレーしたが、そのうち4シーズンがレヴァークーゼンであり、UEFAチャンピオンズリーグでも活躍した。

その後ギド・ブッフバルトの勧めで浦和レッズに加入し、2006年Jリーグ、2007年AFCチャンピオンズリーグの初制覇に大きく貢献。2007年にはJリーグのMVPに輝いている。

引退後は指導者にはならず、ポルトガルのポルティモネンセでフロント入り。中島翔哉ら日本人選手を多く獲得している。

ジョルジーニョ

レヴァークーゼンへの在籍:1989~1992

ジョルジーニョは1994年ワールドカップを制したブラジル代表の優勝メンバーであり、右サイドバックのレギュラーとして全試合に出場したレジェンドだ。

そんな彼は、フラメンゴでジーコらとプレーした後にレヴァークーゼンへと移籍。主にMFとして3シーズンで鮮烈な活躍をみせ、キャプテンも務めた。

その後バイエルンへの移籍を経て1995年に鹿島アントラーズへと加入し、4シーズン通算103試合17得点の成績を残している。

現役を引退後、2012年には指導者として鹿島に復帰。ナビスコカップとスルガ杯を制覇したものの1年で退任している。

フランサ

レヴァークーゼンへの在籍:2002~2005

元ブラジル代表FWのフランサは、ポンテと同時期にレヴァークーゼンで活躍した。

サンパウロで評価を高めた彼は、2001-02シーズンにレヴァークーゼンへ。初年度こそ活躍できなかったものの、翌2003-04シーズンにはポンテ、ディミタール・ベルバトフとの強烈なトライアングルを形成し、自身も14得点を記録した。

その後Jリーグへ。柏レイソルでは6シーズンに渡ってプレーし、ファンから愛される存在に。2011年のみ横浜FCでプレーし、現役を引退した。

引退後も日本にとどまっており、現在はビジネスマンとして活動している。

風間八宏

レヴァークーゼンへの在籍:1984~1985

Jリーグにおいて日本人選手の第一号ゴールを記録した風間八宏も、レヴァークーゼンに在籍した選手だ。

Jリーグがない時代に幼少期を過ごし「海外でプロになる」ことを夢見ていた彼は、1984年にレヴァークーゼンとアマチュア契約を結んだ。

当時「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマーが監督を務めており、その関係で前日本サッカー協会会長の田嶋幸三がコーチ研修を受けていた。

風間にとって田嶋は筑波大学の先輩であり、そのツテをたどってテストを受け合格。評価は高かったものの当時2つだったトップチームの外国人枠はすでに埋まっていたためセカンドチームに送られている。

日本人選手がやった「海外でのスゴい偉業」まとめ

1シーズンで退団しておりトップチームでの出場記録はない。ただ本人によれば試合はセカンドチーム、練習はトップチームで行っていたとのことだ。

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