最期まで愛した車いすバスケ 2月に23歳で他界した小川さん 死を覚悟し指導に熱 長崎で追悼試合

生前最後の試合となった昨年12月の朝日九州選手権。長崎サンライズの主将としてチームをけん引した=長崎市、県立総合体育館

 骨肉腫のため今年2月に23歳の若さで他界した車いすバスケットボール選手の小川祥汰さん=長崎県西彼長与町=を追悼する大会が13日、長崎市内で開かれた。世代別日本代表候補にも名を連ねた逸材。病魔と闘い、少しでも長くコート上で生きたいと願った故人の勇姿をしのびながら、ゆかりのある選手たちがプレーした。
 小川さんは長崎北陽台高で通常のバスケットボールに励んでいた2018年4月、骨のがんである骨肉腫の告知を受け、左脚の切断を余儀なくされた。当時3年生。最後の県高総体にも出場できずショックは大きかったが、両親を悲しませたくないと気丈に振る舞い、病室で1人涙した日もあったという。
 「これから自分はどうしたらいいんだろう」。途方に暮れていた時、出会ったのが車いすバスケだった。
 長与南小、長与二中と主将を務め、長崎北陽台高でも身長178センチの3点シューターとして活躍していた小川さん。すぐに頭角を現し、22歳の時に全日本の次世代強化選手に選出された。昨季は所属チームの長崎サンライズで主将を任されていた。
 車いすバスケに情熱を注ぐ一方で、がんは完治しておらず、肺に転移して徐々に進行していた。通院と抗がん剤治療を繰り返し、多い時期は週1度のペースで気道を確保する手術を受けながらも競技を継続。退院したその足で練習に参加する日も珍しくなかった。「きょうできることは、きょうやっておきたい」。死期が近づいてきているのを悟っているかのように、最後の数カ月は後輩たちの指導に意欲的に取り組んだ。
 昨年12月、長崎市で開催された朝日九州選手権が最後の試合となった。限られた時間ながらコートに入り、司令塔としてチームの3位入賞に貢献。それから約1カ月後の今年1月半ばに容体が悪化し、2月3日に入院先で息を引き取った。
 死ぬ間際まで車いすバスケを愛した小川さん。その思いは後輩たちに受け継がれている。

小川選手の遺影が置かれた献花台に花を供える長崎サンライズの溝口主将=県立総合体育館

 1学年下で、今季から長崎サンライズの主将を引き継いだ溝口良太さん(22)は「優しく、頼りがいがあって、バスケットが大好きな姿を尊敬していた。祥汰くんの代わりになれていないけれど、頑張っていいチームにしていきたい」と決意。この日、会場を訪れた父の久郎さん(46)は「祥汰が初めて競技用車いすに乗った時、『ジェットコースターに乗ってる気分』とうれしそうに話していた姿が印象に残っている。最期まで祥汰らしく生きることができた」と車いすバスケとの出会いに感謝していた。

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