『アンメット』は空白と向き合う行程に 杉咲花と若葉竜也の心揺さぶる対話

朝が来る。目覚めたときの自分は昨日と同じ自分なのか。『アンメット ある脳外科医の日記』(カンテレ・フジテレビ系)第1話は、欠落を抱えて生きる姿を示した。

本作の主人公は医師の川内ミヤビ(杉咲花)。1年半前に交通事故に遭い、後遺症で記憶障害になったミヤビは、事故の前の半年を含む約2年間の記憶が失われており、新しいことを記憶できない。記憶は1日限りで、寝て起きると前の日にあったことは忘れている。医師として働くことは難しいため、看護助手として勤務しながら、日々の出来事を日記に記し、毎朝読み返すことで日常生活を維持している。

丘陵セントラル病院に赴任したアメリカ帰りの脳外科医・三瓶友治(若葉竜也)は、女優の赤嶺レナ(中村映里子)の診療を担当した。脳梗塞で倒れたレナは、左の中大脳動脈が詰まっており、失語症の症状を示していた。夫でマネージャーの博嗣(風間俊介)は、レナの女優復帰を後押しするが、決まりかけていた主演ドラマの話は白紙になってしまう。

「今日が終わって明日が来ることは当たり前だと思って生きてきた。昨日の記憶を失うまでは」

ミヤビが作中で語るモノローグだ。第1話でミヤビが繰り返す日常と、レナが回復する過程は相似形を描いていた。二人とも欠落を自身の中に抱えている。ミヤビは2年間の空白であり、レナは役者にとって命といえる言葉と未来の可能性である。それらはいずれもアイデンティティの喪失に結びつく。ミヤビは脳の海馬、レナは左半球の言語野の損傷に起因し、ミヤビとレナの人生には容易に回復不可能な断絶が生じた。

本作を自分ごととして受け止めるには、いくぶん想像力が必要かもしれない。というのは『アンメット』は医療ドラマではあるものの、病気からの劇的な回復や名医の超人的な手腕をフィーチャーしたものではないからだ。三瓶もミヤビも医師として高い技術を有してはいるが、物語の主眼はそこに置かれない。

『アンメット』では時間が重要な役割を担っている。ミヤビのモノローグにもあるように、時間的な連続に私たちは人格の同一性を見出す。その基盤が崩れたとき、自分という存在は揺らぐ。言葉を奪われたレナにとって、リハビリの時間はあったかもしれないもう一つの未来だった。一方で空白を補充し、癒すのもまた時間である。ふたたびアイデンティティを回復するには、ミヤビのように日々、新たな1ページを重ねる以外にない。

生きることを諦めそうになってもおかしくないのに、そうしないのはなぜなのか。自問自答するミヤビは、三瓶に強引に促され、主治医の大迫(井浦新)の助言を受けて医師に復職する。レナは、絶望的な状況でも女優復帰を諦めない。決断を左右しているのは強い気持ちである。三瓶は「強い感情は忘れません。記憶を失っても、その時感じた強い気持ちは残るんです」と言い、ミヤビはそれを「記憶がなくても心が覚えている」ことと理解した。

単なる精神論ではない脳に秘められた可能性。人間は感情の動物と言われるが、生きるために必要な意欲は情動がもたらしている。三瓶は、記憶を失ったミヤビの中にある感情を信じたのではないか。屋上のシーンは、絶望への恐怖から動けなくなるミヤビの弱さをミヤビ自身に代わって指摘することで、眠っていた感情を呼び覚ましているように見えた。三瓶がなぜそれをしようとしたかは、次回以降で明らかになるのだろう。

たとえるなら『アンメット』は空白と向き合う行程である。私たち誰もが自身の中にブラックボックスを持っている。静謐な空間で進行するドラマは、一人ひとりの内面の物語に光を当てるものになりそうだ。

(文=石河コウヘイ)

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