「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#32

スガモプリズンで獄死した海軍少尉が、戦犯裁判がすべて終わってから書いた「石垣島事件の概要」。そこには、米軍機搭乗員3人の処刑方法を、司令の大佐が決めたことが記されていた。裁判中は、司令も副長もあいまいな証言で、命令系統を明らかにしなかったという。二人には大きな年齢差があり、これが影響したのかー。

◆慶応大生だった若き副長

石垣島警備隊の副長だった井上勝太郎大尉は、1950年4月7日に処刑された時は27歳。岐阜県出身で、復員後は慶応義塾大学の学生だった。独身で家族は母と妹、弟。戦争で父を失っていた。52歳の井上乙彦司令とは親子ほどの年の差がある。

戦後19年の1964年に、法務省の面接調査に応じた宮崎県在住の元上等水兵が、裁判中に感じたこととして、次のように述べている。(元上等水兵は一審で死刑、再審で終身刑)

「井上勝太郎副長をかばう空気が強かった。彼は海軍兵学校出身の優秀な若い将校には違いないが、若いといえば、われわれの方がもっと若い。彼のために何かつかまされているのではないかと疑っている。司令も副長も責任を取らない。特に副長が逃げようとしていた。そこに命令系統が崩れた原因があった。下士官は、取り調べて当たり前のことを云っている。皆が証言しているから事実は動かすことはできない」

元上等水兵は、法廷で下士官が証言したのは2人だけで、そのほかの者は「予め証言しない方が有利だから、証言台に立ちません」と日本人弁護人から誓約書にサインさせられていたという。この制約も、井上副長を助けるためにやったことであろうとしている。

さらに法廷であいまいな証言をした、司令の井上乙彦大佐も、副長をかばおうとしていたのではないかと述べている。

◆司令は副長をかばった?

「(井上大佐は)自分がやらしたのだと受け取れる証言はなかった。責任を取らなかった。はっきり云えば、副長をかばう気持ちがあったのではないか。弁護人との間に、自分はあきらめるが、副長は助けたいという気持ちを伝えていたのではないだろうか。司令は自分では極刑を受ける自覚があったであろう。しかし、一人二人をかばうために、云わねばならぬことを云わず、命令系統をあいまいなものにしてしまった。副長をかばったことが、下級者に大変な影響を及ぼした。いったい、副長を経ずして、中隊長に、司令が命令を下すことはあり得ないのである」

◆司令と副長の大きな年齢差

一方で、1967年に面接調査に応じている佐賀県在住の元二等兵曹(一審は死刑、再審で重労働20年)は、

「この裁判で、弁護団が何か井上副長の弁護に、特に力を入れていたように、被告間に言われていたが、これは井上副長がもともと兵学校でも非常な秀才で、戦後、確か慶応義塾大学に入学しており、処刑命令者の井上司令とは大佐と大尉の大きな階級差や年齢差もあり、副長まで殺すのは惜しい人物であり、その必要もないと考えられたであろうことは、至極もっともなことであり、副長の家族も弁護団と密接に連絡していたことから、弁護団も当然そのような気持ちをもっていたと思う」

と述べている。

◆井上司令について副長が遺書に残したこと

井上司令が、若い副長をかばって、副長に責任が及ばないように命令系統をあいまいにしたという指摘もある中で、当人の井上勝太郎はどのように思っていたのか。戦犯たちの遺稿を集めて、1953年に出版された「世紀の遺書」に収録された井上勝太郎の遺書に、井上司令に対する記述があった。

<「世紀の遺書」より>
「四月六日(木)この室は三十号室だ。二十九号室に司令がいる。三十一号幕田。三十二号田口。三十三号榎本。三十四号藤中、三十五号成迫。この配列は考えてみると興味深いものだ。即ち、この中に二人の老人(頭の禿げた)がいる。(注・井上司令と榎本中尉)ところで、その老人達は一人で冥土へ行くのは厭だと言い張って、各々若者達をお供に従えた。若者と言うのは、この中、四人までは未婚で裁判当時は皆、五人とも二十歳台であったのだ。死刑囚棟二年の生活で二人は三十歳台になったけれども」

「昨夜、司令が連れ出される時『どうも拙い事になって申し訳ない』と言った。私は今更責めようとは思わない。ただ、呵責と悔恨の重荷を負いつつゆくより、有り得ざる決定に死んでゆく事は、考え様によっては、つまらぬ馬鹿々々しい事ではあるが、同時に不思議に気が軽い事である。昔から冤罪や自己の主義主張の為に死んでゆく人々の従容たり得し理由も分る」

◆これに似た様なことを起こしてはならない

<「世紀の遺書」より>
「司令は昨夜申し渡しの時、彼一人で済む様に何度も云ったのにと言いし由、それは再審後の事だ。神に対して申訳する必要は無い。彼は初めから逃げ腰であったのだ。そして最初の命令は誰にもよらず、彼の独断によって発せられた事は間違いない事実であったのだ。彼の性格の弱さがこの事件に致命的であって、取返しのつかない事にしてしまった。それは彼自らが人生の終り、今において知り得るのだ。万事はそれで良い。それで私はこの事件に関しても負う所が多い。或る局外者は私の言を忘恩的というだろう。私は彼を非難しているのではない。再びこれに似た様な事を起こしてはならないという事を悟って戴きたい。この種の事は横浜裁判中、最も重い判決を起し、若い有為の人たちを斯くも多く道連れにしたのだという事を、素直に知って頂きたいのだ。それが我々の死を少なくとももう一層意義あらしめる事なのだ」

井上勝太郎は、死刑囚棟2年の生活を送るなかで、仏道に入った。本を読み、座禅を組んで「現在を最善に生きるべくして努力をしてきた」という。井上司令に対しても、恨み言はない。

この日も、キリスト教徒となった井上司令が洗礼を受けるのに、英語が堪能な勝太郎が、通訳を務めている。帰りに司令が握手しようというので、してきたという。

◆なすべき事はなし終わった

「私はこの生の現在という一点を凝視し、今まで歩んで来た私の道を振り返って見た時、私の為し得た事に満足しているかどうかという事だ。慶大で商業政策を学んでいた時その教授が“My work is done”(注・なすべき事はなし終わった)と言って死ねるかどうかという事を言っていたが、私はそれを言い得るといえよう」

五目飯食いつつ 涙止まずけり 看守に顔をそむけたりけり(井上勝太郎)

最後の昼食のときに、母を思い、涙が止まらなくなった勝太郎だったが、般若心経を唱えて、煙草を吸い、落ち着いた気持ちで鉛筆を走らせている。

夕食を済ませた、処刑の4時間前。
遺書の最後は、「お寝みなさいお母さん、妹。弟よ。」であった。
(エピソード33に続く)

*本エピソードは第32話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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