「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#34

1945年、石垣島警備隊の司令、井上乙彦大佐は、米軍機搭乗員3人の殺害を部下に命令した。しかし、井上大佐は米軍の調べに対して「自分は知らなかった」と述べていた。結果、「共同謀議」で大勢の者が殺害に関与したとして41人に死刑が宣告される事態となったのだが、井上司令は最後まで「知らなかった」で通したわけではない。国立公文書館にその経緯が分かる資料があったー。

◆黒田官兵衛の重臣の血筋

上坂冬子の著書「遺された妻 横浜裁判BC級戦犯秘録」(1983年 中央公論社)によると、井上乙彦は黒田官兵衛の重臣の血を引く、とある。明治31年(1898年)生まれで、処刑当時51歳。大正9年(1920年)に海軍兵学校を卒業した「武人」だと書いている。

井上大佐は、同じスガモプリズンで半年前に絞首刑となった東海軍の司令官、岡田資中将と比較されて語られることがある。岡田中将は法廷で「米軍の無差別爆撃は戦争犯罪ではないのか」と問いつつ、部下をかばって自分一人が絞首刑となった。東海軍で殺害した捕虜の数は38人に上る。岡田中将は日蓮宗の信者で、スガモプリズン内での信仰の中心となり、多くの死刑囚から慕われた。大岡昇平が「ながい旅」でその戦犯裁判の経過を著し、2007年には、映画「明日への遺言」(小泉堯史監督)が製作されている。

◆3人の殺害で7人が絞首刑に

一方、石垣島事件は捕虜3人の殺害に対して、7人が死刑になっている。戦犯裁判に対する井上司令の態度に問題があったのでは、と言われているのだ。上坂はアメリカの国立公文書館に収蔵されていた1629ページの公判記録を読んだ上で、「井上司令が自己の責任を回避した事実は見当たらない。処刑命令をくだしたのは自分であると明言した」としている。そして「なぜあのような批判を浴びねばならなかったのであろうか」と語っている。

実際はどうだったのか。上坂が上梓した時代には公開されていなかった法務省の資料にその経緯が読み取れるものがあった。現在は、国立公文書館に移管されている。

◆「何も知らなかった」を謝罪

敗戦から22年が経過した1967年に、法務省の面接調査に応じた大分県在住の元上等水兵は、井上司令についてこう述べている。

(元上等水兵の面接調書 1967年)
「裁判前、被告全員と弁護人全員が集まり、弁護方針について相談したことがあったが、そのとき、井上司令は初めて、皆に対し『私は検察側に対して、処刑当日は陣地を廻っていたため、事件のことについては何も知らなかったと答えてあったが、まことに済まなかった。今ははっきり私の命令によって処刑したものであることを認める』と言われたが、皆としては『起訴状もすでに出されてからそんなことを言われても役に立たない』との意見であり、司令の態度に対しては皆不満の色が濃厚であった。」

◆裁判直前の“方向転換”

井上司令がスガモプリズンに入所したのは1947年1月20日と、石垣島事件の誰よりも早い。死刑執行された他の被告の入所日は、幕田大尉と田口少尉は3月中旬、副長の井上勝太郎と成迫上等兵曹が6月30日、榎本中尉と藤中松雄は7月初旬だ。GHQへの投書から発覚したという事件なので、まずトップの司令から捜査が始まったということなのだろう。戦犯裁判はその年の11月26日から始まった。起訴状は各々10月には出されているようなので、まさに裁判が始まる直前に、井上司令は「方向転換」したことになる。

(元上等水兵の面接調書 1967年)
「いよいよ裁判になる前までは、井上司令は検察側に対して『自分は連日部隊の視察に行っており、本部に居らず、事件の事は何も知らない。兵隊が勝手にやったことだ、命令した覚えはない』との主旨を主張しており、検察側はこの司令の証言を楯に『共同謀議罪』として一蓮托生に処刑することを画策していたため、成迫上等兵曹が日本軍隊における命令、服従関係を主張した」

◆司令が弁護人に宛てた文書

一方、同じく国立公文書館に収蔵されている資料の中に、「方向転換」した井上司令の具体的な主張と、その時期がわかるものがあった。弁護人の手元にあったと思われる文書だ。公文書館の資料は、提供されたもの一式をまとめてファイルに入れたようなもので、それぞれの文書が何なのか、ラベルがあるわけでも、注釈がついているわけでもない。しかも、被告人は全部アルファベットで、実名は隠されている。

本籍地や階級などがわかる名簿や写真のキャプションなどから、どのアルファベットが誰かを割り出して、井上乙彦司令が被告人「A」であることが判明したので、「A」の資料を探していくと、弁護人の尾畑義純氏に返答と書かれた文書を見つけた。

◆弁護団との「命令陳述」打ち合わせ

日付は1月15日。尾畑氏に返答、書いてある。見出しは「司令処刑命令陳述骨子」だ。

<1月15日 司令処刑命令陳述骨子>
1,幕田大尉 バンナ本部に呼び、司令より斬首を命令した 時刻 日没前後
2,田口少尉 バンナ本部士官室で斬首を命じた 夕食後、時刻ははっきり記憶せず
3,甲板士官 甲板士官及び藤中ら下士官約20名の刺殺処刑者に命令
4,前島中尉 処刑場準備は18時半頃 前島中尉に命じ、榎本は甲板士官として援助す
警戒及俘虜護送を命ず
5,処刑は18時30分頃、司令決意す
6,その他 本件に葬する命令は記憶せず

このうち、3の「甲板士官及び下士官約20名に刺殺命令」という部分には、大きく「?」の文字が記載されている。

さらに国立公文書館には、井上司令が捕虜を処刑する決断に至った、詳細な理由がわかる文書があったー。
(エピソード35に続く)

*本エピソードは第34話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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