逝去したベティスの元名物会長が残した“功罪”。「女の子たちが次から次へと家に...」【現地発コラム】

「当時、我々はICU(集中治療室)にいた。誰もベティスのために1ドゥロ(5ペセタ銀貨の俗称)も払おうとしなかった。それを私は健全な経営と1部へと戻した」

先月23日早朝、79歳でこの世を去ったマヌエル・ルイス・デ・ロペラのこの神話的な言葉は、ベティスの、そしてスペインサッカーの歴史を彩った名物会長ぶりを表わしている。ロペラがベティスを牛耳ったのは、1992年から2010年まで。フランコ体制下で財を成した、根っからのベティコで、唯一無二のキャラクターの持ち主だった。

1950年代末から60年代にかけて、ロペラは、電化製品を売って一攫千金を手に入れた。当時としては画期的だった分割払い方式を導入したことが事業を起動に乗せる決め手となった。その後、不動産業にも参入して勢力を伸ばし、70年代の終わり頃にはベティスを取り巻く有力者の1人になった。

彼はいつも、20歳で初めて100万ペセタ(「ユーロ」が導入されるまで使用されていたスペインの通貨)を稼いだこと、そして「仕切り版の向こうに1000ペセタ札が見える」ことを自慢していた。それが、ベティコ(ベティス・ファンの総称)の間で知られる“ドン・マヌエ”だった。

ロペラが描いた成長曲線は、1994年から2006年までの間、ベティスとアンダルシアのサッカー界を支配したリーダーであることを示している。彼の個性とやり方は、当時、重要なターニングポイントを迎えていたスペインサッカーに新たなトレンドをもたらした。

アトレティコ・マドリーのヘスス・ヒル、バルセロナのジョゼップ・ルイス・ヌニェス、コンポステーラのホセ・マリア・カネダ、レアル・マドリーのラモン・メンドーサとロレンソ・サンス、セビージャのルイス・クエルバスとホセ・マリア・デル・ニドといった同時代の会長たちともに、スペインサッカーの変革期を彩った。

ロペラは1992年、ベティスが株式会社に移行するタイミングで統治権を一手に収めた。以来、ベティスの歴史において数々の忘れがたいエピソードを残した。

例えば、その1992年、8億ペセタの支払いを要求する銀行に電話をかけて、ベティスを消滅の危機から救った際に、「ベティスの死に乾杯しようとシャンパンを用意していた連中に、我々は喜びを与えなかった」と豪語。そのシュールな瞬間をビデオに収めた。

アルフォンソ、ヤルニ、フィニディ・ジョージといった大物選手を獲得し、1996-97シーズンのコパ・デルレイ準優勝、ラ・リーガ4位への躍進の下地を作ったのもこの頃だった。

そしてその97年の夏、さらなる大仕事をやってのける。当時サッカー史上最高額の移籍金、50億ペセタを投じて、デニウソンの一本釣りに成功したのだ。しかし皮肉なことに、そのデニウソンの加入、さらにはホームスタジアムの改修が、1999―2000シーズン終了後の2部降格に象徴される“ロペラ・ベティス”の衰退への序曲となった。

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セビージャのハブーゴ通りにある自宅での交渉もロペラを語るうえで欠かせないエピソードの一つだ。持久戦による衰弱、消耗を誘って、代理人や選手たちを“ロングラン交渉”に晒した。さらにその自宅には劇場も併設。ロシオ・フラードやドゥオ・ディナミコといったアーティストを招待してショーを行なって母親を喜ばせ、ベティスの試合中は愛犬ウーゴと一緒に応援した。

ロペラのエキセントリックさは年齢を重ねても全くといっていいほど変わらなかった。ハロウィーンの夜、ベンハミン・サランドーナの自宅で開かれたパーティー会場に突然姿を現したことがあった。

その一連の出来事について「女の子たちが次から次へと家に入っていた。我々も中に入ると、そのうち何人かは裸でエクササイズをしていた。ホアキンを含めた何人かの選手は窓から飛び降りていった」と回想していたものだ。

そのホアキンとの特別な関係もまた、ロペラをロペラたらしめた。2004-05シーズンにコパ・デル・レイを制した後、行われたホアキンの結婚式では優勝トロフィーが祭壇を取り仕切った。その1年後にはロペラからアルバセテ(当時も今も2部に所属)にレンタル移籍させると脅しを受けたこともあったホアキンだが、「多くの楽しい時間を共有した友人と別れるのは、いつだって悲しいものだ。彼の残した功績はベティスとともに永遠に生き続けるだろう。僕は恨んだりしない」とコメントし、故人を偲んだ。

ロペラの威光は2006年から2010年にかけて政権末期に近づくにつれて失われていった。近年、公の場に現れることも珍しくなっていたが、その数少ない機会の1つで「ベティコは決して私を忘れないだろう」と変わらず豪語する姿が印象的だった。

ロペラの遺体は3月25日に火葬され、遺灰は彼が献身的に捧げたエルマンダ・デル・グラン・ポデルの霊廟に納められた。ちょうど開催時期が重なった聖週間は彼が情熱を傾けたもう1つのことだった。

文●ラファエル・ピネダ(エル・パイス紙)
翻訳●下村正幸

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