大坂城の「残念石」で有名 明石海峡大橋そばの公園の石→搬入は思わぬ場所から!? “石博士”に聞く

ミシン目のように穴が連なる園銘石(高田さん提供)

本州(兵庫県神戸市)と淡路島を結ぶ世界最大級のつり橋、明石海峡大橋。神戸市側の橋の下には、兵庫県立舞子公園があり、市民の憩いの場となっています。その園内の一角にある「舞子公園」の名を刻む園銘石が、江戸初期に大坂城(大阪城)再建のため石垣用に切り出されたものの放置された「残念石」で、さらに大名の刻印まであったことはご存じでしょうか? 約400年前に築かれた大坂城。その歴史をひも解く貴重な存在として、いま、この園銘石が注目されています。

【写真】“石博士”が発見! 「残念石」から3D解析で浮かび上がった大名家の刻印と文字

園銘石が大坂城の石垣材であると断定したのは、奈良文化財研究所主任研究員の高田祐一さん(41)。大坂城など歴史的価値がある石について研究する、まさに“石博士”です。

園銘石を見つけた理由を伺うと、「『巨石』と検索してネットサーフィンをしていたら目に留まった」と、なんとも“石博士”らしい。

高田さんによると、大坂城の石材は切り出しやすくするため「ノミ」と呼ばれる道具で穴を掘る際、長方形の穴(矢穴)が空くとのこと。園銘石の穴はその矢穴ではないかと思ったそうです。

園銘石をよく見ると……、

確かに長方形の穴が2本の直線のように連なっています。

仮説を実証するため“石博士”高田さんは、2019年11月から現地調査。穴の形状からやはり大坂城の石材だと断定しました。さらに撮った写真を3Dデータ解析すると……複数の大名の家紋や文字を発見。

「土佐・山内家と松江・堀江家の家紋が刻印され、『松平』『五月』という文字があるのを発見した。両大名の石の境界線を刻んだか、自分たちの持ち場を別の大名に引き渡すときに家紋を刻んだのかも」と、高田さんは当時の大名の間で交わされた“契約行為”を示す貴重な石である可能性を指摘します。

徳川大坂城の石材で複数大名の刻印と、人名、年月がセットで刻まれた例は初確認だそうで、2022年に発表しました。

大阪城の石垣材として使われるはずだったが放置された「残念石」。採石場や輸送方法に関して調査は行われていますが、分からないことが多いといいます。「研究のさらなる発展につながるはず」と期待した高田さんでしたが……「実は石材が持ち込まれた経緯はわからなかった」とのことです。

兵庫県立舞子公園事務所によると、園銘石は公園改修に合わせ2001年に設置されたのは確認できましたが、搬入前についての記録は残っていませんでした。

さらなる調査のため、高田さんは広く協力を求めます。

その中で兵庫県や神戸市の元職員から2000年に閉校になった神戸市立神戸商業高校から搬入されたとの情報を得ます。

ここで思わぬ偶然が。なんと高田さんの義母が神戸商業高の卒業生。すぐに連絡をして卒業アルバムを確認してもらいました。すると……、

矢穴らしきものが確認できる写真が見つかりました。高田さんは園銘石と比較し、アルバムが撮影された1970年代には「神戸商業高の庭石だった」と特定するにいたります。

「(市立神戸商業高のあった)住吉川流域は早くから開発が進み、石切り場がよくわかっていない。誰がどのように石切り場を確保し大坂城に向け運んだかさらなる解明につながっていくはず」と高田さんは力説します。

大坂城の石垣になるはずが、高校の庭石になり、今では多くの来園者を迎える舞子公園の園銘石。今後はどのような歴史を語ってくれるのでしょうか。

※ラジオ関西『Clip』2024年4月17日放送回より

(取材・文=境祐貴)

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