50代女性が離婚後にめいの「布教」でアイドル沼へ没入してから「変化したこと」

見たくもないテレビを流し続けて、2時間がたった。百合子はもう何度目か分からないため息をつく。

土曜の昼下がり。以前は、仕事が休みの週末になると、夫がいろいろなところへ連れ出してくれたのだが、今はもう1人分の家事を終えてしまえばやることがない。

半年前にいきなり夫から離婚を切り出され、夫は若い女と一緒に百合子の前からいなくなった。20代半ばから25年あまりを過ごしてきた結婚の幕切れは驚くほどにあっけなく、残されたのは財産分与された3LDKのマンションだけ。

それからというもの、百合子はこの広い家で無駄な時間をダラダラと過ごしていた。

翌日、なるべく1日を短くしようと昼前まで惰眠をむさぼった百合子は、朝昼兼用の軽食を食べたあと、ソファに寝転がって携帯をイジっていた。

インターホンが鳴った。何かの勧誘だろうか。この抜け殻のような家を訊ねてくる人間に、百合子は心当たりがなかった。

ゆっくりと体を起こしてインターホンのモニターを確認すると、女の子が険しい顔で映っていた。

「……夏織?」

百合子は半信半疑のまま、1階のエントランスへ下りる。姿の見えないセミは忙しそうに鳴いていた。モニターに映る顔では確証がなかったが、やはり訪問者は夏織。百合子の妹である有希の娘――めいっ子の夏織だった。

夏織とは2年前に母が倒れたときに病院で会ったのが最後だった。あのときと比べてずいぶん、大人びたような気がする。年はたしか、17歳になったはずだ。

百合子に気づいた夏織が頭を下げる。百合子の腕には大きなボストンバッグが抱えられていた。

「お久しぶりです……」

声は固く、なにやら事情があるのは明白だった。しかしめいっ子といっても、あいさつを交わす程度でこうしてぶしつけに家を訊ねてくるような間柄ではなかった。

「あなた、1人よね?」

「……はい」

「どうしたの? 突然」

「い、嫌だった……?」

一瞬、答えに詰まる。

「……そういうんじゃないけど」

いきなり来られても困るという言葉はすんでのところで引っ込める。とはいえ、追い返すわけにいかないのも事実だった。

「取りあえず、上がって」

17歳の家出

百合子はリビングで夏織にお茶を出した。しかし事情を聞き出そうにも夏織はだんまりで、しびれを切らした百合子はそれとなくリビングを離れ、寝室で妹の有希に電話をかけた。

事情を聞いた有希は、電話越しでため息をついていた。

「あー、姉さんのところに行ってたか」

「行ってたか、じゃないわよ」

「やけに部屋が静かだなと思ってたけど、まさか家出していたとは……」

「家出って……何があったのよ」

「いや、実はさ、昨日、大げんかしちゃって」

けんかの内容は夏織が勉強もせずに家でダラダラしてたからだという。

来年には受験を控えているにもかかわらず、焦っている様子の見えない夏織に有希が注意をしたことで、大げんかに発展したとのこと。

「どうしてあんたらのけんかに巻き込まれないといけないのよ」

「ゴメンねぇ。何とかこっちから連絡はしてみるけど、あれはなかなか頑固だからね。本人が納得するまで帰らないと思うわ」

「あんた、連れ戻しに来なさいよ」

「お姉ちゃんの家で第2ラウンドしてもいいの?」

「いや、それは……」

「でしょ? だからお願い! 夏休みのあいだだけよろしくね」

百合子が何かを言う前に、有希は手際よく電話を切った。百合子のため息が寝室の床に落ちて消えた。

妹ゆずりの勝手な振る舞い

暗たんとした気持ちでリビングに戻ると、夏織は勝手に押しかけてきて今更気まずさを感じているのか、うつむいていた。

黙っていては余計に気がめいるので、何か話題を探す。百合子の目に、夏織のボストンバッグにつけられたアクリルのキーホルダーが目にとまる。

「そのキーホルダーの男は誰なの? アイドル?」

夏織はうなずく。

「ショウタ。バニーズのメンバー」

バニーズという名前に聞き覚えがあった。家の余白を埋めるために流し続けていたテレビにも意味があったというわけだ。

「なんか最近よくテレビ出てるやつか」

「うん、アイドル。ほら、オーディション番組で選ばれたの。見たことあるでしょ?」

「へぇ」

もちろん見たことはない。百合子はあいまいにうなずいた。

「ライブ見る? DVDもね、持ってきたんだよ」

夏織はそう言ってボストンバッグからDVDボックスを取り出し、プレーヤーにセットする。

勝手な振る舞いは有希譲りだろう。大げんかをしていても、2人は親子というわけだ。しかしそれ以上に、家から持ってきたバッグの中身がほとんどアイドルのグッズばかりだったことにあきれていた。

家出を単なるお泊まりと勘違いしているのではないか。

百合子が突っ込みそうになったとき、ライブ映像がスタートする。7人の男の子たちがステージ上に飛び出して、キレのあるダンスと歌を披露する。素人目に見ても、彼らのパフォーマンスが積み上げられた練習の上に成り立っているものだと理解できる。夏織は肩を揺らしながら、曲を口ずさみつつ画面に見入っていた。とはいえ百合子は知らない曲ばかりなので、画面を流し見るようにボーッと眺めていた。

「推し」って?

しかしライブが進むにつれて、オレンジ色の髪をした1人の男の子に目がとまる。

その男の子は大抵の曲でステージの端にいた。そこが定位置なのか、フォーメーションの入れ替えでセンター付近にくることはあっても、すぐに端へと戻っていく。けれど、人一倍ダイナミックなパフォーマンスでステージ上から訴える。

俺を見てくれ。

百合子は彼がそう叫んでいるような気がした。

気がつけば、大勢の観客たちを相手に晴れやかな顔でパフォーマンスをするオレンジ髪の男の子から、百合子は目が離せなくなっていた。

あっという間に2時間半のライブDVDが終わり、夏織は興奮した様子で、百合子を見る。

「ど、どうだった?」

百合子は思わず目を背ける。

「すごいね。特に、あの、オレンジ髪の子、すごくすてきだった」

「ホクト? え、おばちゃん、ホクトが推しなんだ」

「……推し?」

「んー、なんていうか、応援してるってことかな」

応援と聞き、ふに落ちた。

百合子はステージの端でも全身全霊のパフォーマンスを続けるホクトのことを、応援したいと思っていた。

「そんなにホクトが好きなら、オーディションのときから見た方がいいよ。サブスクで過去のやつ全部見られるから」

そう言われて、百合子はその日1日すべてを費やして、過去のオーディション番組を見ていった。もちろん百合子の横で夏織は分かりやすく解説をしてくれた。

印象的だったのは、最終選考に残った15人の候補生たちのなかで、ホクトは別にダンスも歌もうまいほうではなかったことだ。

合宿で講師の人に手ひどく怒られ、目に涙をためる。みんながレッスンを終えたあとも、たった1人で自分ができていなかった箇所、怒られていた箇所を何度も何度も練習し続ける。できない自分にいら立って思わず声を荒げるシーンがあった。自分のふがいなさに、1人涙を流すシーンがあった。

やがてホクトは積み上げた努力が実を結ぶように、目に見えてパフォーマンスの力をつけていく。

「ホクトはね、最初、ファンのあいだでは”何で最終に選ばれたのか謎”って言われてたんだよ。歌もいまいちだし、ダンスだって下手だったし」

アイドルの世界はシビアだ。SNSがあるおかげで人気や批判はごく簡単に可視化できる。そういう人気は楽曲の立ち位置やソロパートの多さに反映される。一緒に汗を流すメンバーは仲間でありながらライバルなのだ。

ホクトは最終オーディションの結果を受けて、初めて人前で涙を流す。当然だ。それはうれしいだろうと百合子も思った。あれだけ努力してつかみ取ったデビューなのだから。

しかしホクトはマイクを受け取ると、こういった。

『最終の合宿、すごく楽しくて。悔しいこともあったけど。でもこうやって結果が出て、僕が合格したことで、落ちた人がいる。そのことをずっと忘れずに、これからの活動を頑張りたいです』

きっとホクトは人の痛みが分かる人なのだろう。誰よりも努力していたホクトは、自分の努力だけではなく、最終合宿に臨んだ15人の候補生全員が努力していたことをちゃんと知っている。

百合子はホクトの、そして彼が愛するバニーズというアイドルグループのとりこになっていた。

夏織に教えてもらいながら、CDやグッズを買った。通勤中はバニーズの楽曲を聞き、家に帰ってからは夏織と一緒にライブDVDや出演バラエティーを見て騒いだ。

あれほどやることがなかった空虚な時間も、夏織との生活を面倒に思う気持ちも、もう跡形もなかった。夏休みが終わりに差し掛かり、夏織が家に帰る日には、お互いに抱き合って少しだけ泣いた。

しかし夏織が帰ってからも、夏織との連絡は続いた。もちろん話題はバニーズ一色だった。

●百合子の退屈な日常は変化した。幸せな日々は続いていくのだろうか。後編怠惰な生活を送るアラフィフおひとりさま女性に活力を与えた「推しと同じくらい大切な存在」】にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

© 株式会社想研