『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』は娯楽映画の“絶対的王者”に 脱帽するしかない111分間

2024年の『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』にこれまでと違っていることがあるとすれば、それは昨年の『名探偵コナン 黒鉄の魚影』がシリーズ最大のヒットを記録し、ここ数年に渡ってのシリーズの悲願でもあった“興行収入100億円”という大台についに乗ったこと。コロナ禍のあおりを受けた『名探偵コナン 緋色の弾丸』は例外だったとしても、『名探偵コナン』の映画シリーズというのは常に“前年のコナン”が最大のライバルであり、それを超えるための“挑戦者”であり続けてきた。

ところが今年はどうか。『黒鉄の魚影』が100億どころか138.8億という大レコードを更新した以上、それに挑む“挑戦者”であること自体は変わらないが、少なくとももう“絶対的王者”の地位をキープするために100億を下回ることは許されない。昨今100億超を稼ぎだすアニメ映画が頻発するようになり、現在公開中の作品にもそれに王手をかけた作品がある。『名探偵コナン』の場合はそれらと一線を画すように、入場者プレゼントという飛び道具を一切使わず、クオリティひとつで勝負をかけるしきたりのようなものがある。となればここから先は年々そのハードルが上がっていく一方である。

よりにもよってその『黒鉄の魚影』が灰原哀と“黒ずくめの組織”を描くという、いわば『名探偵コナン』という作品の根幹ともいえる部分に踏み込んだ作品であった。近年の傾向でもある人気キャラをメインに据えるという技を単に繰り出すにしても、もうひとパンチ必要になってくるし、だからといってしょっちゅう“黒ずくめの組織”を描くわけにもいかない。そこで今回の『100万ドルの五稜星』が仕掛けたのは、怪盗キッドと“西の名探偵”である服部平次の二本柱。しかもそれに『まじっく快斗』と『YAIBA』のキャラクターたちも加えた“青山剛昌ユニバース”を展開するという、離れ業というかむしろ力業だ。

考えてみれば『ドラえもん』にしても『名探偵コナン』にしても、年1回の風物詩として存在する国民的アニメの劇場版は、ある意味では“お祭り”であって然るべきであり、力業でも何も問題はあるまい。雪が溶けて過ごしやすい季節になった函館への観光気分を映画で楽しむというイベントであり、五稜郭の歴史を知ってラッキーピエロを食べて函館山に登る。そこから見える100万ドルの夜景はアニメーションの技術力の結晶ともいえるぐらい力が入っている。もちろんそうしたなかで物騒な事件が起こるし、ド派手なアクションも全開。それだけで、いかに娯楽映画として成立しているかが証明されているといえよう。

しかも今回は、コナンではなく服部平次がほとんど主人公といって差し支えないぐらいすべてを持っていくではないか。そういえば前回平次が劇場版に登場したのは、いきなりテレビ局を爆破した『名探偵コナン から紅の恋歌』。その前の年が“黒ずくめの組織”との対峙を描いた『名探偵コナン 純黒の悪夢』だったので、今回もまたガラリと劇場版のカラーを転換させる役割を平次が担ったことになる。新撰組・鬼の副長こと土方歳三にまつわる刀に端を発したお宝探しがメインプロットとなるなかで、登場シーンから揚々と場を掻っ攫わんという空気を醸しだし、かと思えばどこから持ってきたのかわからないバイクで怪盗キッドを追いかけて大立ち回りを繰り広げる。

ストーリーテリングの土台となる“謎解きミステリー”においてはコナンと終始同行するバディとしての役割を果たし、操車場でキッドの前に謎の剣士が立ちはだかるシーンや函館の街全体を使ったチェイスシーンでもたっぷりと見せ場が用意されている。さらに遠山和葉との恋模様の進展が、“因縁の”怪盗キッドの登場によって盛り上がり、またほぼ上空(と電話口)から関与してくるだけの大岡紅葉の存在によってコメディとしてのポジションもほしいままにしていく。そして極め付きはクライマックスのアクション。あれはほとんど『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』だ。

それこそ怪盗キッドが前回登場した劇場版である『名探偵コナン 紺青の拳』でシンガポールの国家的シンボルたるマリーナ・ベイ・サンズをいとも容易く破壊したように、『名探偵コナン』の劇場版シリーズにおいてはスクリーンスケールを存分にアピールするようなド派手なディザスターシーンが見せ場となってきた。ところが今回は、あると言えばあるが、大惨事とまではいかない程度に留められている。もっともそれは、函館という実在のロケーションを使う上での作り手としての配慮のようなものだろうか(だったらシンガポールのあれはなんだったのかという話になってくるが)。

それでも先述の平次が見せるクライマックスにおける重力無視のアクション。それは映画冒頭にみられる時代劇シークエンスでの生々しい殺陣に始まり、劇中でひとつひとつ積み重ねられてきたアクションとスペクタクルのクレッシェンドがあることによって無理矢理ではない、コナン映画らしいクライマックスの運びとして成立しうるものだ。しかもそこで繰り広げられる剣を交えるというアクションによって、序盤の怪盗キッドとの格闘と対比することになり、いずれにおいても平次の心のなかにはブレることなく和葉の顔が浮かび続ける。“アクション・ラブコメ・ミステリー”という新種の語り口を111分間あますところなく詰め込まれてしまっては、もうとにかく脱帽するほかない。

(文=久保田和馬)

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