あちこちで家屋倒壊の珠洲市 29年前の神戸と同じ光景に、地震工学の研究者は「じくじたる思い」 教訓はなぜ生かされなかったか

能登半島地震で被害の大きかった石川県珠洲市では、倒壊した民家がそのまま残っていた。奥には観光名所の見附島が見える=3月30日、石川県珠洲市宝立町(撮影・斎藤雅志)

「まさか地震が…」滞った耐震化

 倒壊した家の前に、花が手向けられていた。

 能登半島の先端に位置する石川県珠洲(すず)市。幹線道路から外れた一角に、黒い屋根瓦の日本家屋があった。1階は2階に押しつぶされて見えない。

 60代の夫婦はここで、自宅の下敷きになって亡くなった。

 市内に住むいとこの男性(74)が地震翌日に駆けつけたとき、夫婦はまだ埋まったままだったという。

 「名前を呼んでも返事がない。がれきをどけようとしたけど、親戚に『あぶないし、入るな』と止められたんよ」。男性は無念さをにじませる。「古い家なんで、どかんと落ちてくれば死んでしまう」

 家の前には、衣装ケースや木片が散乱したまま。あたりはしんと静まりかえっている。元日の地震から3カ月。時が止まっているかのようだった。

   

 珠洲市内を歩くと、この家と同じように、1階が押しつぶされた木造家屋があちこちに見える。

 金沢大の村田晶助教(52)=地震防災工学=は地震2日後に同市正院(しょういん)町を調査し、既視感を覚えた。

 「被害のない建物を探すほうが難しい。阪神・淡路大震災と同じ」。そう証言する。

 大学院生だった村田さんは1995年1月、震災から約1週間後の神戸市東灘区に入った。1階のつぶれた家屋が道の両側に折り重なる光景に言葉を失った。

 能登半島地震の死者は、災害関連死15人を含めて石川県で245人。氏名が公表された犠牲者の死亡原因は、家屋倒壊によるものが8割に達する。103人が亡くなった珠洲市の住宅耐震化率は51%(全国平均87%)。1981年以前の旧耐震基準で建てられた住宅で倒壊が相次いだ。

 「あれから29年たつのに、また建物が倒壊してこれだけの人が亡くなった。地震工学の研究者として、じくじたる思いだ」。村田さんの表情が曇った。

   

 阪神・淡路大震災でも、直接死の7割を家屋倒壊などによる圧死や窒息死が占めた。被害は旧耐震基準の住宅に集中した。

 教訓はなぜ、生かされなかったのか。

 珠洲市で築60年の実家が全壊した男性(62)は話した。「耐震改修を考えて市役所に行ったことがあるが、何百万もかかると聞いて諦めた。自分の代にこんな地震が来るなんて思ってもみなかった」。市会議員の浦秀一さん(61)は「阪神・淡路大震災の時、ひどいなあと思ったけど、こっちで起こるとはイメージできなかった」と振り返った。

 能登に限らず、被災地では災害対策を「自分事」としてとらえなかったという後悔がいつも渦巻く。

 珠洲市の泉谷満寿裕(いずみやますひろ)市長(59)は「家屋が倒壊さえしなければ、人の命は守れた」と唇をかんだ。

 失われた命は戻らない。阪神・淡路の遺族は今も肉親の死と向き合い続けている。(上田勇紀)

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