作家・医師の南杏子さん、33歳で医学生に「学ぶのに “遅い” はありません」【前編】

編集者から医師に、そして作家業も。目標に向かって果敢に挑戦し、実現してきた南杏子さん。チャンスだと思ったら迷わずつかみ、まっすぐに突き進む。そのための努力はいとわない。そんな夢中が生み出す突破力が、南さんの原動力なのかもしれません。

お話を伺ったのは
作家、医師 南 杏子さん

みなみ・きょうこ●1961年、徳島県生まれ。作家、内科医。
日本女子大学卒業後、出版社勤務を経て、イギリス滞在中に長女を出産。
帰国後、東海大学医学部に学士入学。現在は、都内の病院に内科医として勤務。
2016年、終末期医療がテーマの『サイレント・ブレス』(幻冬舎)で作家デビュー。『いのちの停車場』(幻冬舎)は映画化された。
その他著書は『いのちの十字路』(幻冬舎)など。

学ぶのに「遅い」はない。33歳で医学生に

「皮膚の下はどうなっていて、おなかにはどんなものがどう詰まっているのか、知りたくないですか。私、人体図鑑をぼろぼろになるまで読むような子どもだったんですよ」

編集者から医師になり、今や作家としても活躍する南杏子さん。だが、医学への挑戦は娘を出産した後の33歳、作家デビューは55歳だった。遠回りしつつも、自分の夢をしっかりつかんだ稀有な人である。

「最初の大学受験のとき、自分が医師になるという発想はまるで浮かばなかったんです」

父親が繊維会社勤務ということから興味をもった、家政学部被服学科に進学し、ドライクリーニング用洗剤の研究に取り組んだ。

「大学卒業後はマスコミ界に憧れ、出版社の入社試験を受けたのですが、全滅。編集プロダクションに入りました」

25歳で結婚。27歳で念願の出版社に中途入社する。

「担当したのが育児雑誌でした。医師に取材をして記事をまとめる仕事もしたのですが、この頃からもっと学びたいという意欲がふつふつと湧いてきたんです」

読者の集まりなどで、お母さんから子どもの病気などについて質問を受けても、きちんとは答えられなかった。

「調べてはいても、医学を基礎から学んでいないので……理解し切れていないもどかしさを痛感しました」

27歳。主婦の友社に中途入社。雑誌『わたしの赤ちゃん』編集部で編集者として働いていた。

転機は31歳での妊娠・出産だった。会社の産休育休制度を利用し、南さんは夫の留学地・イギリスで暮らしていた。そんなある日、日本から取り寄せた新聞に医学部の学士入学制度を紹介する記事を見つけ釘づけになった。

「試験科目は小論文、英語、面接。これなら私にも医師になれるチャンスがあるかもと。イギリスのコミュニティー・カレッジでは大勢の社会人が真摯に学んでいて、その姿を目の当たりにして、学ぶのに遅いということはないとも感じていました。何より、夫が『なりなよ』と背中を押してくれたのが力になりました」

32歳で帰国。出版社に復職しながら勉強を続けて、医学部を受験。見事合格して2年次に編入。33歳で医学生になった。

「私の両親が隣に住んでいたので、母に育児を手助けしてもらいました。夫も時間的に余裕のある部署へ異動し、サポートしてくれました。そういう意味で、環境的にもすごく恵まれていたと思います」

31歳。産休育休中に夫の留学先イギリスに。解剖生理学とアロマセラピーに熱中した。
31歳。イギリスで女の子を出産。医学部の学士入学制度を知り、医学部受験を決意。

「これかも」と思ったらつかむ。行動する

他の医学生との年齢差は気にならなかったと、屈託なく微笑む。

「2割が学士入学の学生でしたから。ただ、覚えなくてはならないことが山ほどありました。でも辛いなんてこれっぽっちも思わなかったなあ。一度、社会に出たからこそ、教えてもらえるということがいかに貴重であるかがわかる。自分が知りたいと渇望していたことをどんどん学べるのですから、楽しくて楽しくて。わくわくしていました」

自宅から大学まで片道2時間、往復4時間かかった。その通学時間を自習時間にあてた。

「休みの日もほぼ勉強でした。娘は順応性が高く、私が机に向かっている後ろでお絵かきをしたりとマイペースで。ただ、学校の先生に呼び出しを受け、もう少しお子さんと関わってくださいと言われたときはさすがにこたえましたが」

そんな娘さんも、一度入学した大学から他大学の医学部に学士入学。今、母と同じ道を歩んでいる。

33歳で東海大学医学部の2年次に編入。家族の協力のもと子育てしながら、勉強に励んだ。
38歳。「知らないことを教えてもらえるのが楽しくて楽しくて」卒業生総代となる。

大学卒業後、慶應大学病院で老年内科の研修医として勤務したが、その後二度、夫の海外勤務に同行し、日本を離れた。40歳から2年間はイギリスに、44歳から2年間はスイスに滞在。

「このとき、日本にとどまり、医師としての修業を積むという道もあったと思います。でも、私は海外で暮らせるチャンスを逃したくなかったのです」

娘さんに現地で英語とフランス語を学ぶ機会を与えることができるという思いもあった。

「海外では日本にいたときには出ないような発想が生まれる。それも魅力でした。医師になろうと決めたのも、イギリスで暮らして家庭医の制度を知ったこと、カレッジで解剖生理学を学んで熱中したことなどが背景にあります。

スイスではWHO(世界保健機関)のボランティアをさせてもらったのですが、『あ、国際機関って、こういうふうに動いているんだ』という発見や出会いがたくさんありました。『あ、面白そう』と思ったらつかむ。行動する。それが今の私をつくったような気がします」

慶應大学病院の老年内科で研修医に。早朝から深夜まで夢中で臨床に取り組む。

(後編に続く)

※この記事は「ゆうゆう」2022年1月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のために再編集しています。


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