愛犬が認知症と診断されて、悲しいというより、なぜかうれしい気持ちになった。「本当に長い間、私たちのそばにいてくれてありがとう」【雑種タロの実話 前編】

「犬がそばにいてくれたから、幸せな時間が増えた」という一文から始まる書籍『犬がそばにいてくれたから』は、ドッグライフカウンセラー歴30年 三浦健太さん著の「犬の命」にまつわるエピソード集。犬の老いについて学ぶことで、今、犬とかけがえのない幸せな日々を過ごせますように、という願いが込められています。雑種 タロの話を2回に分けてお届けします。

最近は高齢化社会で、寝たきりや認知症の問題が取りざたされています。私の家にも高齢化の波がやってきて、ついには認知症に悩む家庭のひとつになってしまいました。でも発症したのはおじいちゃんでもおばあちゃんでもなく、愛犬のタロでした。

タロは雑種で、子犬のときに県内の動物愛護センターから引き取ってきまし た。タロは山深い森の中で見つけられたそうです。雨の降る夕方、小さな巣穴に子犬ばかり6匹、身を寄せて震えているところを発見され、付近に親犬も見当たらなかったということで保護されました。

犬を飼いたいと動物愛護センターに行った私は、その茶色いぬいぐるみのような姿に魅了され、即引き取りの手続きをしました。自然の困難をくぐり抜けて私のところにやって来たので、名前はタロとつけました。『南極物語』のタロとジロのタロからもらった名前です。

あのぬいぐるみのように小さくかわいかったタロは、みるみるうちに精悍で凜々しい成犬に成長していきました。1年後には体重が20キロにもなり、どうやら秋田犬の血が入っているのではないかと思われるほどさらに大きく育ちました。

思っていた以上に大きく育ったものですから、動物愛護センターや近所の人たちからは「ちゃんと育てないと、大変なことになるよ」と心配されました。

しかしタロは本当におとなしい犬で、いたずらっ子の小学生も、まだ飼育に不慣れだったころの私でさえも、かまれたことは一度もありませんでした。近所の人たちもいつしかすっかり慣れて、散歩中に出会えば皆さん頭をなでてくれました。

私はしつけにはさほど興味がなく、ましてや訓練など考えもしませんでした。

それはタロの過酷な生い立ちを知っているだけに、私のところに来たからには、甘やかしてあげたいという気持ちもどこかにあったのかもしれません。

「お父さんは僕には厳しいのに、本当にタロには甘いんだから」などと息子から愚痴をこぼされたこともあります。

息子に自転車の乗り方を教えるときには、けっこう厳しく指導していました。それがタロには、見よう見まねで「オスワリ」「オイデ」「マテ」を教え、完璧にはほど遠い状態でも厳しくることもできず、甘くなってしまうのでした。特に私の「マテ」という声に喜んで駆け寄って来たときには、さすがに苦笑いしてしまいました。

「オスワリ」も言うとおりにできるのは10回に3回くらいで、言うことをきかないと言えばそれまでですが、座らずに近づいて来て、足元に顔をすり寄せてくるかわいさといったら、しつけなんてどうでもよくなってしまうのです。

タロは普段は庭で自由に過ごし、夕方になると妻に足を拭いてもらって家に上がります。食事はリビングで家族の一員として一緒に取ります。眠るときは玄関脇の専用スペースで横になるのですが、息子はそれが気に入らないらしくこんな会話が続きました。

「タロはいいなぁ。僕には自分専用の場所なんてないのに」
「そんなに自分の場所が欲しいならタロの横に毛布を敷いてやろうか」
「僕はお母さんと一緒の布団のほうがいいよ」
「なんだ、ちゃんと自分の場所があったじゃないか」

その後は、南極のタロの名前にふさわしい冒険譚とは無縁の15年間を過ごし、すっかり老犬となりました。
そのころから、不思議な事件が起こり始めたのです。

「お父さん! 急いで来てください!」
「なんだ、慌てて。どうした?」

妻に呼ばれ、庭へ出てみて私は目を疑いました。植えてあった芝生が無残にも引きちぎられていたのです。
「こんなひどいことをするなんて、一体誰が? 土もこんなに掘り返されて、一体どうなっているんだ? 庭門の鍵はしっかりかけられているし、誰かが入って来たとも考えにくいしな」
「ねえ、タロの足、ひどく土で汚れているわよ」
「そんな、まさかタロが? なんのために? それにこの芝生、タロのお気に入りの場所だぞ」

タロは今まで一度も芝生を掘り返すようなことはありませんでした。犬は胸焼けすると、道端の草を食べてそれを解消しようとしたりしますが、胸焼けするようなものを食べたわけでもありませんでした。そもそもそんな理由では済ませられないほどに芝生は掘り返されていたのです。

「なんだろうね?」
家族でいくら話し合っても、答えにはたどり着きませんでした。なにしろタロはそれまで、私たちを怒らせるようなことをしたこともなければ、理解できないようなことをしたこともなかったのです。

「何かいつもと違う、気に入らないことがあったのかしらね」
妻が結論めいたことを言いましたが、答えは出ませんでした。

「ねえ、タロがどんなときに、あんなことをするのか観察してみましょうよ」
妻の提案で、時間の許す限り交代で庭にいるタロを観察することになりました。しかし、それからタロが芝生を掘り返すようなことはありませんでした。

そして半年が過ぎ、家族の誰もがあの出来事を忘れてしまったころ。ある日曜日の昼下がりに、私は読書をしながら妻の入れてくれたコーヒーを飲んでいました。と、不意にタロの唸り声が聞こえてきました。

「タロが唸るなんて珍しいな」
私はコーヒーのカップを片手に縁側へ足を運びました。
「お、おい! みんな! みんな来てくれ!」
私の大きな声に妻と息子は大急ぎでやって来ました。庭には唸り声を上げな がら暴れているタロと、半年前よりも広い範囲で荒らされた芝生。そして割れた鉢植えの数々が辺りに転がっていました。

うろたえる妻、その妻にうろたえる息子。私は庭へ飛び出して、唸るタロの首根っこを押さえながら怒鳴りました。
「タロ!何をしているんだ!? ダメだろう!こんなことして!」
その瞬間、タロは予想外の行動に出たのです。タロは鬼のような形相で唸り声を上げ、その牙をむき出しにしたのでした。

「きゃーっ!」
「お父さん!!」
私は思わずタロを振り払いました。タロは地面に倒れ込みました。
「タロ! 大丈夫か!?」

駆け寄ってタロを抱き上げると、そこにはいつもと同じ温和なタロがいて、「クゥ〜ン」と甘えたような鳴き声ですり寄って来るのでした。あんな恐ろしい目に遭ったのに瞬時にタロに駆け寄れたのは、あのタロの姿が信じられず、異世界にでも放り込まれたような不思議な感覚だったからなのかもしれません。

しかしそこは異世界でもなんでもなく、現実だということを見せつけられました。やがて、タロが庭を荒らすことも、私に唸り声を上げることも毎日のこととなり、日に何度も繰り返されるようになりました。庭を荒らしているタロは、もう別の犬のように感じられ、やめさせようと思って「イケナイ」と言うだけでも、あの鬼の形相で唸り声を上げて威嚇してくるのです。原因はわかりません。ただ唸るばかりで、かみついたりはしてこないのが救いでした。私は庭に転がった鉢植えと、もう取り返しがつかなくなった、芝生のあった場所をぼうぜん呆然と見つめていました。

それから数日後、タロは花がむしり取られて庭に転がっていた、まだ割れていない素焼きの鉢をかじっていました。壊そうと思っているのか、かじったり、引きずり回したりしていました。タロも既に15歳を超えていたので、かむ力は相当弱くなっているようで、歯で砕くことはできずにいました。ただ時間をかけてかむことによって、少しずつ縁が欠けていっています。そしてその細かい欠片をペロペロとなめ始めたのです。「ダメ」と言おうと思ったのですが、あの鬼の形相を思い出し、声をかけることを躊躇してしまいました。

こんなことが何日も続きました。そして、そのうちタロは散らばった素焼きの鉢の欠片をおいしそうに食べ始めたのです。いくらなんでもそれは体の内側が傷ついてしまうと思い、止めに入りました。

「やめなさい!」

私が首輪をつかんで地面から引き離した瞬間、鈍い痛みが右腕に走りました。タロが私をかんだのです。今までイタズラの甘がみさえしたことのなかったタロが、私にかみついてきたのです。顔から血の気が引いていくのがわかりました。もう老犬でかむ力は弱くなっていますので、血がにじむ程度で大事には至りませんでしたが、ショックを受けるには十分な出来事でした。

「これは普通じゃない。変だ。きっと何かが起きているんだ!」

胸騒ぎがした私はタロを連れて動物病院へ駆け込みました。はじめの芝生の 一件から、素焼きの鉢を食べ、腕にかみついたことまでを細かく説明しました。先生の答えはたった一言でした。

「認知症ですね」
「に、認知症!? 犬がですか? 犬が認知症になるんですか!?」
「犬にも認知症はあります。特に和犬系の高齢のワンちゃんに多く出やすいんですよ」
「私はどうしたらいいんでしょうか」
「とにかく大事にしてあげてください」

先生の診断を聞いて、私は悲しいというより、なぜかうれしい気持ちになっていました。そんなになるまでの本当に長い時間、タロは私たちのそばにいてくれたのです。

「ありがとう、タロ」

後編に続く

※この記事は『犬がそばにいてくれたから』(三浦健太著 主婦の友社刊)の内容をWEB掲載のため再編集しています。


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