悲願の延伸・北大阪急行を全踏破 賑わいに感じたニュータウン高齢化解決の糸口

by 小川 裕夫

延伸開業で始発・終点駅となった箕面萱野駅。御堂筋線の電車も発着

3月のダイヤ改正で、全国的な注目を浴びたトピックは北陸新幹線が石川県の金沢駅から福井県の敦賀駅まで延伸開業したことです。また、東京圏では京葉線の通勤快速が廃止された鉄道ニュースも大きく扱われました。

そうした話題に隠れがちですが、大阪では3月23日に北大阪急行電鉄が千里中央駅-箕面萱野(みのおかやの)駅間の延伸開業を果たしています。北大阪急行電鉄は江坂駅を境に、Osaka Metro(大阪メトロ)の御堂筋線と相互乗り入れをしている鉄道路線です。これまでは大阪府吹田市の江坂駅と豊中市の千里中央駅を結んでいました。

今回の延伸によって、北大阪急行電鉄は大阪府箕面市に進出します。箕面市から大阪市へのアクセスが飛躍的に向上したことは言うまでもなく、沿線の発展が期待されています。

路線図

開業から1週間後の3月末に既存の区間も含めた江坂駅から箕面萱野駅までの全区間を踏破し、沿線の様子を確かめてきました。

千里ニュータウンは新しい概念で生まれた

大阪府大阪市は、東京と並ぶ西の大都市です。大正期の大阪市は東京を凌ぐ経済発展を遂げ、「大大阪」と形容されました。また、工業で発展した経緯からイギリスの工業都市になぞらえて「東洋のマンチェスター」と称されることもありました。

大阪市は戦後に引き続き経済発展を遂げていきますが、大都市固有の問題である住宅難が1950年代から深刻化しました。高度経済成長期の初期には労働者を確保する観点からも住宅の整備が焦眉の急となり、行政は大阪近郊にニュータウンの造成を進めます。

大阪近郊に造成されたニュータウンは数多くありますが、そのなかでもニュータウンのモデルとされたのが大阪府吹田市・豊中市にまたがる千里ニュータウンです。

千里ニュータウン位置図(出典:豊中市「千里ニュータウンの再生」)

日本初のニュータウンとされる千里ニュータウンは、大阪府が“理想的な人工都市”を標榜して1958年に開発を決定しています。千里ニュータウンの想定人口は約15万人。それほど巨大な都市をゼロから築くのですから、広大な土地が必要でした。しかも、大阪市で働くサラリーマンの住宅地にすることを想定していたプロジェクトですから、大阪市から遠いエリアでは話になりません。大阪市から北へ約15kmと近い場所の千里丘陵は、大阪府の条件に合致するエリアだったのです。

当時の千里丘陵は自然の森が残り、里山風景が広がっていました。そんな自然豊かな一帯を切り開いて、人工都市の千里ニュータウンは造成されていったのです。

千里ニュータウンの開発は、単なる住宅地の建設という話にとどまるプロジェクトではありません。大阪府は幹線道路で区切られた小学校区をひとつのコミュニティとして捉え、商店やレクリエーション施設を計画的に配置する近隣住区と呼ばれる概念を基本として計画を策定。また、その幹線道路も歩行者と自動車を完全に分離する歩車分離という思想によって設計されています。千里ニュータウンはそれまでの日本の都市計画・住宅政策にはなかった新しい概念で住宅都市を生み出そうとする試みでもあったのです。

まちびらき当時の公共交通は通勤の足は務まらず

しかし、千里ニュータウンの開発にあたり、大阪府は致命的なミスを犯します。それが大阪市まで通勤するための足を整備しなかったことです。

高度経済成長期、マイカーが激増。それまで地域の足として活躍していた市電は時代遅れの公共交通と目されていました。大阪市では1960年代から市電の廃止が相次ぎますが、そうしたトレンドもあって千里ニュータウンにおいても鉄道を整備する機運は強くありませんでした。行政は道路を整備し、千里ニュータウンと大阪市をバスで結ぼうとしていたのです。

1962年、千里ニュータウンのまちびらきを迎えましたが、この時点でニュータウンを走る鉄道はなく、ニュータウン内を走っていたのは阪急バスだけでした。しかも、阪急バスは大阪市へと向かうのではなく、ニュータウン内から吹田駅へと向かうルートのみでした。これでは、通勤の足は務まりません。

翌1963年、京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が千里山駅-新千里山(現・南千里)駅間を開業。ようやく千里ニュータウンに待望の鉄道が走り始めたのです。

他方、現在の北大阪急行電鉄の構想は遅々として進んでいませんでした。大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)の主要路線でもある御堂筋線は、大阪の中心地である梅田駅から難波駅・天王寺駅と南へと線路を延ばしていました。その一方、北側には線路は延びていなかったのです。

70年大阪万博を機に北大阪急行電鉄が誕生

1964年、東海道新幹線の開業に伴い、御堂筋線は梅田駅から約3.5km北側へと線路を延ばしました。

この延伸は東海道新幹線開業に合わせて、大阪の中心地である梅田駅と新幹線の停車駅である新大阪駅を一本で移動できるようにするもので、さらに北側にある千里ニュータウンまで延伸するという考えはありませんでした。

御堂筋線は東海道新幹線の開業にあわせて新大阪駅まで延伸した(写真は現在の様子)

1965年に日本万国博覧会(大阪万博)の開催が決定すると、さらなる御堂筋線の北への延伸が議論されるようになりました。なぜなら、大阪万博は開場予定地を千里丘陵、つまり千里ニュータウン一帯と申請していたからです。

千里丘陵には万博を開催できるほどの広大な土地がありましたが、ニュータウン開発の時点から鉄道網の整備は進んでいなかったのです。このまま交通網を整備しなければ、とても大勢の来場者をつつがなく万博会場へと運ぶことはできません。

こうした事態に対処するため、御堂筋線を北へと延伸する議論が再び始まります。しかし、万博閉幕後には延伸区間が用済みになってしまう可能性があったことから、大阪市は御堂筋線の延伸に難色を示しました。こうして、万博の輸送問題は暗礁に乗り上げます。

このままでは万博輸送は覚束なくなることを危惧した政府や大阪府は、妥協案として御堂筋線を江坂駅まで延ばし、そこから北は大阪府や阪急電鉄が出資する第3セクター鉄道を建設するという方式を提案します。

こうした経緯から、1967年に北大阪急行電鉄が誕生。そして、そして、1970年に御堂筋線が新大阪駅から江坂駅までの約2.9kmを延伸し、同時に北大阪急行電鉄が江坂駅から万国博中央口駅までを開業させたのです。

北大阪急行電鉄は万博輸送を目的に誕生したので、万博閉幕後に万国博中央口駅を廃止します。そして中間駅の千里中央駅は仮設駅として建設されていましたが、万博閉幕後は位置を変えて正式な駅になりました。

万博閉幕後、北大阪急行電鉄は赤字になることが危惧されていました。しかし、その後も千里ニュータウンは発展と人口増を続けていきます。そして、1975年には緑地公園駅を新たに開設。千里ニュータウン住民の足を担う、大切な鉄道路線へと成長を遂げていったのです。

北大阪急行電鉄は万博終了後から長らく千里中央駅を終点にしてきました。千里中央駅は千里ニュータウンの中核となる駅ですが、そこから北側にも延伸を求める声は多く、1989年には運輸政策審議会が延伸するように答申を出しています。

その答申から約25年が経過し、今年の3月23日に北大阪急行電鉄の延伸がようやく叶いました。延伸したのは千里中央駅-箕面萱野駅間の約2.5kmで、新たに開設されたのは箕面船場阪大前駅と箕面萱野駅の2駅だけです。それでも悲願だった延伸を達成し、同社のホームページには特設サイトも開設されるなど祝賀ムードに溢れています。

北大阪急行電鉄 延伸開業特設サイト

”オールドタウン”にはならない千里ニュータウン

早速、朝7時台に梅田駅から電車に乗り込み江坂駅を目指します。梅田駅では多くの乗客が下車していきましたが、引き続き乗車している利用客や梅田駅から乗車してくる利用客もいて、車内は依然として混雑していました。

身動きできないような満員電車というわけではありませんが、江坂駅まではそれなりに混雑した状態が続きます。そして江坂駅に到着すると、多くの人が下車していきました。

江坂駅のホームに降り立つと、すれ違う梅田駅方面へと向かう電車はスーツを着込んだ人たちで溢れていました。そして意外にも大阪市中心部と逆側、つまり箕面萱野駅方面へと走る電車にもたくさんの人が乗っていました。

朝ラッシュ時の江坂駅。大阪方面に向かう人と大阪方面から来た人などで混雑する

江坂駅の外に出ると、北大阪急行電鉄が走る線路の真下には国道423号線が走っています。国道423号線は大阪万博に合わせて整備された新御堂筋線と呼ばれる道路です。そうした面を見ても、1970年に開催された大阪万博が大阪市から北へと延びる交通ネットワークの整備に寄与したことが窺えます。

新御堂筋は大阪市と千里ニュータウンを結ぶ
北大阪急行電鉄の高架線の下には何もない空間が広がる

江坂駅を出発した電車は、高架線を北へ北へと走ります。江坂駅の北側で名神高速道路をオーバークロスします。しかし、途中から電車の姿が見えなくなり、緑地公園駅へと到着。江坂駅から緑地公園駅までを歩いただけでも千里丘陵の起伏を感じることができますが、そうした起伏は並走する北大阪急行電鉄の線路を見ていても実感できます。

名神高速をオーバークロスする北大阪急行電鉄の電車

緑地公園駅は駅名の通り、駅西側には広大な服部緑地が広がっています。駅は半地下構造になっていて、開業当初から駅が設置できるように設計されたようです。しかし、需要が少ないと予測されたことから開設は1975年にまでズレ込みました。

緑地公園駅は開業時には開設されなかった

駅が開設されると大阪市まで近いことや幹線道路・鉄道という複数の要因も重なり、駅周辺は大規模なチェーン店が並ぶようになりました。その雰囲気は、いかにも郊外のニュータウンです。

新御堂筋を間断なく走る自動車と北大阪急行電鉄の電車を横目に見ながらひたすら歩くと、次の桃山台駅が見えてきます。江坂駅では道路の東端と西端は横断歩道で行き来できましたが、北へ北へ進み、ニュータウンに近づくにつれて新御堂筋と北大阪急行電鉄の線路によって両端の歩道は分断されていきました。

両端の歩道を行き来する術は、点在している歩道橋しかありません。逆に、歩道橋からは北大阪急行電鉄の電車を見ることができます。

北大阪急行電鉄の高架線を悠々と走る電車

桃山台駅を過ぎたあたりから、視界の遠くに高層の集合住宅群が並ぶようになりました。この集合住宅群が千里ニュータウンの光景になるわけですが、古びた団地群という雰囲気は感じられません。

桃山台駅から梅田駅方面へと向かう電車

高度経済成長期から整備された千里ニュータウンの団地群は、その後も新陳代謝を繰り返しながら、定期的に新しい集合住宅が建設されていきました。そのため、ところどころに真新しい超高層マンション、いわゆるタワマンも建っています。

昭和期に造成されたニュータウンは住民の高齢化とともに“オールドタウン”と揶揄されるようになり、近年は深刻な社会問題になっていることも珍しくありません。そうしたニュータウンが抱える高齢化は行政課題にもなっていますが、少子化が加速している現在において自治体も抜本的な対策を講じられていません。

しかし、それはあくまでも一般的な話です。千里ニュータウンも高齢化によって引き起こされている問題はあるのでしょうが、街の風景を眺めてみると、ほかのニュータウンより活気に溢れているという印象を抱きます。

実際、沿線を全踏破している際、ベビーカーを押している若いママや公園で子供と一緒に遊んでいるママ、ママチャリの前後に子供を乗せて疾走しているママなどをたくさん見かけました。

ニュータウン感満載の桃山台駅から北へと歩くと、新御堂筋と中国自動車道が交差する地点が見えていきます。ここで北大阪急行電鉄の線路は東へとカーブして地下に潜ります。地下へと潜った地点が千里中央駅です。

千里中央駅は大阪モノレールとの乗換駅

千里中央駅は、今回の延伸まで北大阪急行電鉄の終着駅でした。大阪モノレールとの乗換駅で、駅前にはバスターミナルも併設。千里ニュータウンの中心的な役割を果たしてきた駅です。

千里中央駅の駅ビル。バスターミナルも併設されており、千里ニュータウンの交通拠点にもなっている

千里中央駅は駅ビルを併設しているほか、阪急グループが千里阪急という百貨店を出店しています。千里阪急は、その外観が特徴的で多くの建築ファンを魅了しています。この千里阪急は竹中工務店が設計・施工しました。竹中工務店は大阪市に本社を置き、非上場ながら国内でも5指に数えられるスーパーゼネコンとして名を馳せる企業です。

そのため、国内で竹中工務店が関わっている有名建築物は少なくありません。そんな竹中工務店は旧来から阪急との関係が強固で、阪急電鉄や阪急百貨店などの阪急グループの建物を多く手がけてきました。

また、先述したように大正期の大阪は東京を凌ぐ経済発展を遂げ、大大阪と呼ばれていました。経済発展を遂げるにあたり、オフィスや商業施設などが次々と建てられましたが、それらの多くを竹中工務店が設計・施工しています。つまり、竹中工務店は大大阪や千里ニュータウンという大阪の発展を建築という側面から支えてきた企業でもあるのです。

延伸開業エリアへ突入。駅施設から窺える令和のまちづくり思想

千里阪急の建物を見ながら千里中央駅から先に進みます。ここからが、3月に延伸開業した区間です。延伸区間の2駅はともに駅間が短く、徒歩や自転車でも容易に移動できそうに感じます。しかし、千里丘陵は起伏が激しいので、短い区間でも公共交通が必要とされてきました。

千里中央駅から終着の箕面萱野駅方面は再び上り坂になります。千里中央駅北側に立地するUR千里北町団地は昭和の雰囲気を残した団地群ですが、同団地を過ぎるとニュー・ニュータウンといった雰囲気の街へと変わっていきます。駅間が短いので、千里中央駅から箕面船場阪大前駅までは徒歩でもすぐに到着しました。

箕面船場阪大前駅は地下駅ですが、駅に隣接して箕面市の文化芸能劇場や図書館があり、また駅の地上部には広大なオープンスペースが設けられています。オープンスペースには木のベンチが設置され、音楽会や展示会といったイベント開催にも活用される予定です。

箕面船場阪大前駅は完成して間もないので駅施設のすべてが新しいことは言うまでもありませんが、令和に建設されたこともあり、ここまで見てきた北大阪急行電鉄の駅とは設計コンセプトが異なっていることを実感できます。箕面船場阪大前駅は明らかに駅を集客施設と捉えて、駅を核にしたまちづくりが想定されているのです。

箕面船場阪大前駅の駅前広場

そんな新しい思想で開設された箕面船場阪大前駅を過ぎると、線路はいつの間にか地上に姿を現しますが、私が歩いている道路もどんどん高度を上げているので、電車は眼下を走ります。

そのため、箕面船場阪大前駅から箕面萱野駅へと向かう途中の道路から、遠くに見える箕面萱野駅を発着する電車を見下ろす形で撮り鉄することもできます。そんな絶好の撮り鉄スポットである丘を下り、芋川と千里川を渡ると終点の箕面萱野駅に到着しました。

箕面萱野駅は駅前広場がバスターミナルになっているほか、芝生広場なども整備されて親子連れでにぎわいます。駅には東急不動産が開発を手掛ける商業施設「みのおキューズモール」が併設され、ニュー・ニュータウンの発展を牽引する存在になっています。また、こうした新施設によって若い夫婦の流入が期待されています。ニュータウンの高齢化問題を解決する糸口にもなりそうです。

箕面萱野駅はバスターミナルのほかショッピングモールも併設されているので、家族連れでにぎわっている

北大阪急行電鉄の延伸区間は、わずか2駅です。当初は、2020年度の延伸開業が予定されていました。しかし、設計や工事工程の見直しを迫られ、開業は2023年度へと延期されています。現在は箕面船場阪大前駅や箕面萱野駅の周辺で都市開発が進められていますが、延伸に関連した工事が完了していない箇所もあちこちで見られました。

北大阪急行電鉄の延伸工事に伴って、いろいろな工事が発生。延伸開業時も、それらの工事は完了していなかった
千里中央駅-箕面萱野駅間では、あちこちに北大阪急行電鉄延伸に伴う工事のお知らせ看板が立つ

北大阪急行電鉄の延伸区間は未完成といえる状況ですが、それだけに発展する余地は十分にあります。まだ延伸開業したばかりですので、今後のまちづくりに期待です。

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