【達川光男連載#50】病魔と闘う津田恒実とV旅行へ!選手全員がお守りを忍ばせ試合に臨んだ

1986年は神宮球場でリーグ優勝を決め、抑えの津田と抱き合って喜んだ

【達川光男 人生珍プレー好プレー(50)】1981年のドラフト1位で社会人野球の協和発酵から入団した津田恒美(のちに恒実に改名)は、入団発表の席で当時の古葉竹識監督が「うちで今までにないタイトルは新人王だけ。必ず取らせます」と宣言したほどの期待の星でした。

私も82年の春季キャンプで初めてボールを受けた際に、3球目で「この直球なら新人王は間違いなしじゃ」と確信しました。実際に11勝6敗の好成績で新人王に輝くと、津田は「これも皆さんのおかげ」と賞金で寮生全員に焼き肉を腹いっぱい食べさせてね。みんな感激していましたよ。2次会の費用まで出してくれましたから。

津田で印象に残っているのは、その練習量の多さです。ランニング量はチームでもトップだったんじゃないでしょうか。本拠地の旧広島市民球場で打たれた翌日には誰よりも早く球場に来て、ライトからレフトまで外野席の階段を上り下りを繰り返していました。「きのう来てくれたお客さんに謝るんだ」と言って。

同時期にブルペンを支えていた中継ぎ左腕・清川栄治のプロ初勝利を消してしまったときは、一晩に3回も4回も清川の部屋を訪ねて謝っていました。「達川さん、抑えってつらいですね」と初めて泣き言を聞かされたのも、このときだったように記憶しています。心配して津田の部屋をのぞいたら、座禅を組んでいました。「弱気は最大の敵」と書かれたボールを手に。

津田はリリーフエースに定着した86年に胴上げ投手となり、89年には最優秀救援投手に輝きました。88年には9敗を喫しましたが、それでも阿南準郎監督は抑えを代えようとしませんでした。なぜなら津田の練習への取り組みを見ていたからです。「津田で負けたら仕方ない」というのはチームの共通認識でした。

僚友や首脳陣、スタッフ、球団職員、その家族たちの期待を背負って投げる投手というのは大変な仕事です。なかでも打たれれば同僚の勝ち星も消してしまう抑えは1球の重みが違う。津田だって、逃げ出したかったことはあるでしょう。

でも彼は病魔とも真っ向から闘い続けました。まさに「天歩艱難(てんぽかんなん=天運に恵まれず、非常に苦労すること)」な人生で、2年後の93年7月20日に32歳の若さで天国へと旅立ってしまったことは残念でなりません。

かつて旧広島市民球場のブルペンにあった「直球勝負 笑顔と闘志をわすれないために。」と記されたプレートは球場移転に伴って2009年3月にマツダスタジアムの一塁側ブルペンとベンチをつなぐ壁に設置され、今も投手が登板前に触っていると聞きます。ともに戦った戦友として、津田のスピリットが受け継がれていることはうれしい限り。そんな伝説の投手とバッテリーを組めて私も幸せでした。

91年4月14日の巨人戦を最後に離脱した津田の症状は「水頭症」と発表されましたが、選手たちは「脳腫瘍」で再起は難しいことを知っていました。「優勝して津田をV旅行に連れていこう」との思いを胸に秘め、手術の日には選手全員でユニホームのポケットにお守りを忍ばせて試合に臨んだと記憶しています。そんな思いが強すぎたのかもしれません。私はシーズン中にチームの和を乱しかねない行動を取ってしまったのです。

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