ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#38

アメリカの国立公文書館に収蔵されている、石垣島事件の法廷写真。弁護人に付き添われて判決を宣告される写真の人物が誰かを突き止めようとしていたところ、1枚の写真に写る男性の遺族に行き着いた。一審で死刑となり、その後、重労働40年に減刑。およそ10年をスガモプリズンで過ごした、その男性はー。

◆遺族から架かってきた電話

誰の写真かが特定できたのは、石垣島事件の当時、兵曹長だった炭床静男だ。炭床静男兵曹長は、戦犯たちが自ら戦犯裁判について記録を残した「戦犯裁判の実相」で、石垣島事件についてまとめている人物だ。裁判の概評として、

「本事件は、横浜全裁判中もっとも復讐的にして、残忍な裁判なり。いかに頭脳の良い裁判官にもかかる判決を出す為には相当に苦労せるものと思う。再審に際しても、第八軍で減刑になりし者より、GHQの再再審の結果、減刑になりし者が軽くなる等最後まで矛盾撞着に満つ」
(「戦犯裁判の実相」より 巣鴨法務委員会1952年)

と書いている。

◆31歳で死刑を宣告

炭床静男は、1916年(大正5年)、鹿児島に生まれた。1933年、17歳の年に佐世保海兵団に入団以来、終戦まで海軍にいた職業軍人だ。海軍兵学校で教官を務めたこともある。死刑を宣告されたのは、誕生日の3日前、ぎりぎり31歳の時だった。

「すみとこ」という名前は珍しいので、住所地付近の同じ姓の人を当たっていくと、ご高齢の女性とそのお孫さんがお住まいの家に行き当たった。聞いてみると「炭床静男さん」を知っているという。写真を見てくださるということだったので、背景をぼかして、顔だけの確認が出来るように加工した写真を用意して、名刺を添えてお送りした。

およそ1ヶ月後、携帯電話に知らない番号から着信があり、出てみると、「炭床といいます」と男性が話したので、びっくりした。炭床静男の三男、浩さんだった。私が写真をお送りしたのは、遠縁にあたる方で、そこから浩さんの従兄弟に連絡があり、浩さんに行き着いたということだった。取材を受けていただけるか聞いてみると承諾してくださったので、準備に取りかかった。

◆石垣島事件を語るキーパーソン

炭床静男は、石垣島事件を語る上でのキーパーソンだ。処刑の現場に居て、一部始終を見ていた人であり、殺害された3人のうち、杭に縛られて銃剣で刺されたロイド兵曹に関わった1人でもある。スガモプリズンで1947年6月30日の入所から仮釈放まで10年の月日を過ごしたが、1949年7月から死刑囚棟で歌を作り始め、1953年に巣鴨短歌会が出版した「歌集 巣鴨」に歌が掲載されている。その当時、アララギ会員だった。

“死と定(き)まりし吾が身なれども今朝よりは風邪気味なれば下着重ねつ”

“父吾れの運命(さだめ)も知らず幼子は「すぐにかへれ」と手紙よこしぬ”

この二首は、死刑を宣告されたあと、減刑前に詠んだものだ。

連絡をくださった浩さんは三男で、1957年6月生まれ。炭床静男の軍歴によると、巣鴨からの仮釈放は同じ年の9月になっている。1952年のサンフランシスコ平和条約発効からは管理も緩やかになり、一時帰宅も出来たということなので、さほど珍しいことではない。そもそも歌集を出版するなど、現在の拘置所ではあり得ないことが行われているので、スガモプリズンは特殊なところであったのだと思う。

◆26歳の学徒兵との別れ

取材に先立って、浩さんのもとには、すでに入手している歌集のコピーなど資料をお送りした。巣鴨遺書編纂会がまとめた「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」(1953年)の中には、炭床静男が成迫忠邦上等兵曹との思い出を綴ったものがあった。成迫上等兵曹は、石垣島事件で絞首刑となった7人のうちの1人で、大分県出身。26歳の若さで命を奪われた。

炭床兵曹長が石垣島警備隊に着任したのは、1944年の11月。成迫上等兵曹は、翌年、迫撃砲隊先任下士官として警備隊に加わったが、甲板士官の職にあった炭床兵曹長が「無理な注文をしても、努力してくれた」とある。

◆二畳の独房に同居

(十三号鉄扉「成迫忠邦君を憶う 炭床静男」より)
「君は最も若い先任下士官であり、然も学徒出陣の軍隊経歴の短い下士官であったにも拘わらず、戦局を良く理解し、最も良き協力者として戦闘作業の推進に努力して呉れたので、私には最も印象に残っているのである。裁判中に於ける態度も、長い軍隊経歴を有する吾々よりもしっかりしていて、感心させられたものである。判決を受けたその日の午後二時過ぎ、当時の死刑囚棟であった五棟に入れられたのであるが、成迫君と私は二畳の独房に同居することとなった。」

◆いよいよ来るべき日に備えて

死刑囚として成迫上等兵曹と過ごした炭床兵曹長は、再審で再び死刑を宣告され、来るべき日に備えて、苦しい日々を送っている。

(十三号鉄扉「成迫忠邦君を憶う 炭床静男」より)
「其の後約一ヶ月、君と起居を共にしたが、その当時は気分転換の為時々部屋の入替えが行われて居たので私も君と別れて他の者と同室することになった。一九四九年一月十日、石垣島事件関係者に対する米第八軍司令官の再審が発表された。そして遂に井上司令以下十三名の死刑は確定して、やがて絞首台に登るべき運命となった。成迫君も私もその同じ運命に置かれたのである。その頃は次々と死刑が執行されていたので、愈々来るべき日に備えて皆真剣に死の解決に苦しんだ。訪問時間には、関係者の室に集って互に心境を語り、又執行日の予想を話し合ったりして、全く陰惨な毎日を送ったのである。ところが、一九四九年もどうやら生き永らえて、新しい一九五〇年を迎えた。その一九五○年はキリストの聖年であった。聖年には死刑の執行はない。と本当ともうそともつかぬニュースが何処からともなく伝って来て、或は助かるかも知れぬ、とはかない希望も生まれて来るのであった」

◆死刑執行前、ぎりぎりの減刑

1950年3月29日、最初の死刑判決から2年が経過したころ、GHQによる再再審で、炭床兵曹長の命が繋がれた。

(十三号鉄扉「成迫忠邦君を憶う 炭床静男」より)
「そして三月二十九日、突如石垣島関係者六名の減刑が発表された。其の中に幸にも私の名前もあったが、遂に成迫君の名前を見出すことは出来なかった。同じ事を同じ命令に依り行ったのに、吾々のみ減刑となって君等に対して慰め様はなかった。『暫くの辛抱だと思うから頑張って呉れ』と言っては見たものの吾ながら何かそらぞらしい思いに苦しんだ。出て来る私共を笑って見送って呉れたのだが、これが今生の死別となってしまったのである。あの時の君の笑顔、そして澄み通った瞳、私はそれを永久に忘れる事が出来ない。四月六日朝、石垣島の七名は昨夜ブリュー(巣鴨拘置所内の米軍が名付けた地区名)に移されたと聞かされた。私は全身の力がぬけたようで、暫しは動く事も出来なかった。一週間前あんなに元気で送って呉れたのに、此の世には神も仏もないものか、何の罪もないものをどうして殺さなくてはならないのか。吾等の気持を考えると只涙が滲み出るばかりであった」

減刑された炭床静男は死刑囚の棟から移され、生きる希望を見いだした。一方、わずか1週間後、成迫上等兵曹の死刑執行が決まった。スガモプリズンから家族のもとへ帰った炭床静男はそこからの人生をどう送ったのか。公文書館で入手した裁判資料を携えて、炭床静男の遺族に会いに鹿児島へ向かったー。
(エピソード39に続く)

*本エピソードは第38話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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