虐殺から30年、よみがえった「千の丘の国」 ルワンダ

虐殺から30年、よみがえった「千の丘の国」 ルワンダ

8日、ルワンダのキガリ虐殺記念館に掲げられた、犠牲者を追悼するトーチ。(キガリ=新華社記者/董江輝)

 【新華社キガリ4月20日】アフリカのルワンダで起きた大虐殺から30年がたった。首都キガリにあるキガリ虐殺記念館で7日に開かれた追悼式典では、カガメ大統領と各国の要人らが犠牲者に花輪を手向け、共にトーチに点火した。100日間続いた30年前の惨劇を悼み、火は100日にわたって燃え続ける。

 1994年4月7日からの100日間で約100万人のルワンダ人が惨殺された。そのほとんどがツチ人だった。同じ言葉をしゃべり、同じ宗教を信じるフツ人とツチ人がなぜこれほど対立するようになったのか。根源にあるのは「分割統治」というかつての植民地政策にほかならず、ジェノサイドの種をまいたのは西側の入植者だったと言える。

虐殺から30年、よみがえった「千の丘の国」 ルワンダ

7日、ルワンダ東部州のムビヨ連帯和解村の自宅で、息子と一緒にテレビを見るジェノサイド生存者のジャクリーン・ムカマナさん。(キガリ=新華社記者/董江輝)

 ルワンダはアフリカ中央部に位置し、「千の丘の国」と呼ばれ、フツとツチが二つの主要民族グループを形成している。19世紀末、欧州列強が競ってアフリカを分割し植民地化する中で、ルワンダはドイツの植民地になった。入植者は残忍な支配をもたらしただけでなく、何世紀にもわたるフツとツチの人々の平穏な共生関係を徹底的に覆した。容貌がより欧州人に近いツチ人を「優等人種」とみなし、「代理人」としてルワンダを統治させた。

 第1次世界大戦でドイツが負けると、ルワンダの人々がまったく関知しないところで、ベルギーが統治を引き継ぐことが決まった。ベルギーの植民地当局はドイツの「ツチ優遇政策」を継続。ツチ人が軍事や政治の面で重要な地位を担う一方、フツ人は抑圧された。

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4日、ルワンダの首都キガリにある、外壁一面に弾痕が残る建物。当時のアガート・ウィリンジイマナ首相を警護していた国連ルワンダ支援団(UNAMIR)の兵士10人がここで殺害された。(キガリ=新華社記者/董江輝)

 第2次世界大戦後は反植民地主義のうねりが世界を席巻した。ルワンダではフツ人もツチ人も植民地支配の抑圧に耐え続けることを望まず、支配に抵抗し始めた。ベルギー植民地当局は圧力に抗しきれず、勢力を伸ばしつつあったフツ人支持へと転じた。1962年にルワンダは独立し、フツ人のカイバンダ氏が初代大統領に就任した。新政府はツチ人を政治の場から追放し、教育や就職の面でもツチ人に障壁を設けた。

 90年10月、ウガンダに亡命したツチ人が組織したルワンダ愛国戦線(RPF)とルワンダ政府軍の間で衝突が発生。ツチ人は、祖国に戻りルワンダ人としての権利を享受することを要求した。93年8月、フツ人のハビャリマナ大統領率いるルワンダ政府は、3年に及ぶ内戦を終わらせるべくRPFと和平協定を締結した。

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7日、ルワンダ東部州のムビヨ連帯和解村で、協同組合で編んだ装飾品を見せるジェノサイド生存者のジャクリーン・ムカマナさん(左端)と村の女性たち。(キガリ=新華社記者/董江輝)

 人々が平和の到来に安堵の息をついていたさなかの94年4月6日、ハビャリマナ大統領とブルンジのヌタリャミラ大統領らを乗せた航空機がキガリ空港近くで撃墜され、両大統領はじめ機内の政府高官が全員死亡した。この事件をきっかけに、ルワンダ国内では対立が完全に爆発。大統領機撃墜後すぐにフツ過激派がルワンダ暫定政権を発足させ、軍とフツ民兵がキガリ各地にバリケードを築いて通行人の身分証明書の出身民族情報を厳しく調べるようになった。

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8日、25万人以上の犠牲者の遺骨が納められた、ルワンダのキガリ虐殺記念館の共同墓地。壁には犠牲者の名前が刻まれている。(キガリ=新華社記者/董江輝)

 時間をかけて仕組まれていた大虐殺が始まった。フツ民兵はこん棒やナタを手に取り、罪のないツチ人を虐殺した。キガリではわずか1週間で2万人が死亡した。虐殺はたちまち国中に広がり、田畑や森林、沼地、丘に避難した多くのツチ人も虐殺を免れなかった。約100日間続いた虐殺で、ルワンダ全土が血に染まり、暴力と絶望が国全体を覆った。

 国連は第2次大戦後の1948年、ジェノサイドの悲劇を二度と繰り返さないことを決意し、「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約(ジェノサイド条約)」を採択した。だがルワンダで大虐殺が起きたとき、米国を中心とする西側諸国は沈黙を選んだ。その理由は当時のクリントン米大統領がルワンダ虐殺のさなかに行った演説が示している。「世界で起きている民族紛争にわれわれが最終的に介入するかどうかは、米国の利益にとっての重み次第だ」。

虐殺から30年、よみがえった「千の丘の国」 ルワンダ

8日、ルワンダのキガリ虐殺記念館で、犠牲者を追悼するトーチの前にたたずむ来館者。(キガリ=新華社記者/董江輝)

 94年7月、RPFの指導者だったカガメ氏が軍隊を率いてキガリに入り、速やかに全土を掌握し、100日続いた悲劇を終わらせた。RPFはその後、フツ、ツチ双方の出身者を政府の中枢に入れた国民統一政府の樹立を発表。新政府は憲法を改正し、身分証明書の民族表記を廃止した。こうしてフツ人とツチ人の区分は消え、国民はルワンダ人というただ一つのアイデンティティーを共有するに至った。

 安定した政情、良好な治安、効率的でクリーンな政府により、ルワンダの経済社会は近年、目覚ましい発展を遂げてきた。世界銀行の統計によると、2010~19年の10年間の経済成長率は年平均7.2%で、1人当たり国内総生産(GDP)も年平均4.5%で伸びた。キガリは08年、アフリカの都市として初めて国連人間居住計画(ハビタット)名誉賞を受賞した。

虐殺から30年、よみがえった「千の丘の国」 ルワンダ

4日、ルワンダの首都キガリ。(キガリ=新華社記者/董江輝)

 グローバルサウスの一員として、ルワンダは南南協力の強化を対外交流における重要な方向性と位置付けている。18年にはルワンダの転換の歩みにおける革新的な措置を世界の協力パートナーに紹介し、発展の道を模索する途上国間の交流・協力を強化するため、政府が資金を拠出し「ルワンダ協力イニシアチブ」を設立した。

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8日、ルワンダのキガリ虐殺記念館の展示ホールで、大虐殺の歴史に関する展示を見学する来館者。(キガリ=新華社記者/董江輝)

 カガメ大統領はこれまで幾度も中国を訪問し、中国の経験に学び、ルワンダの国情に合った発展の道を模索したいとの考えを示している。2018年、ルワンダは「一帯一路」共同建設構想に参加した。統計によると、中国企業が建設した道路はルワンダの国道総延長の70%以上を占める。これらの道路はルワンダの経済社会の発展を支える大動脈となり、ルワンダを「陸の孤島」から「陸の相互連絡国」に変え、ルワンダ国民に確かな利益をもたらしている。

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