米軍の魚雷に沈んだ富山丸、訃報に泣き叫ぶ母の声、道ばたの草でしのいだ戦後の生活…慰霊祭は亡き父と向き合う特別な日 毎年参列してきた遺族が、1000万円の寄付に込めた思いは…

慰霊祭開催に長年協力してきた徳之島町に1000万円寄付した桑島正道さん=17日、徳之島町亀津

 太平洋戦争中、徳之島町亀徳沖で米軍の攻撃を受けて沈没し約3700人が犠牲となった輸送船「富山丸」の沈没から今年で80年。父親を亡くした香川県富山丸遺族会会長の桑島正道さん(87)=香川県東かがわ市=にとって、60年以上続く町の慰霊祭が心のよりどころとなってきた。毎年一緒に参加してきた妻の死を機に昨年末、同町へ1000万円を寄付。「平和が永久に続くように」と思いを込めた。

 17日、同町亀徳の「なごみの岬公園」であった慰霊祭で、桑島さんは参拝団代表としてあいさつし「同じ過ちを繰り返さぬよう、平和の原点であるこの公園に足を運び続けたい」と誓った。1964年に始まった慰霊祭には、75年ごろから毎回参加。訪れるたびに石碑に刻まれた父・正義さん(享年45)の名を指でなぞる。黙とうすると、戦地に向かう列車の窓から身を乗り出して見えなくなるまで手を振り続けた父の姿が思い浮かぶという。

 保険会社の副社長だった正義さんは44年6月29日、亀徳沖約3キロを南下中、米潜水艦の魚雷攻撃を受け命を落とした。訃報を受け、母の冨美さん(故人)が押し入れの中に入り泣き叫んだ声が今も脳裏にこびりついている。

 父の死後、毎日のように空襲に遭い、兵庫県から両親の実家のある香川県に疎開。実家は焼け、小学3年生の夏、戦争は終わった。

 「本当に苦しかったのは戦後の方」と桑島さんは振り返る。家も食べ物も失い、道ばたの草でしのいだ。高校卒業を控え就職試験を受けたが、面接で「父親がいない家庭は金銭を使い込まれた時に責任をとれない」と断られ、やむなく香川大学へ進学。中学の数学教諭になり、71歳まで教育長などを勤め上げた。

 桑島さんにとって慰霊祭は父と向き合う特別な日。遺族の思いに応えて慰霊祭開催に協力する同町へ恩返ししたいと、昨年12月、寄付を実現した。一昨年亡くなった妻の高子さんと話し合っていたことだった。「戦争を考えなければ平和を知ることはできない。次世代のみなさんは戦争体験者から多くの話を聞き、世界各国の紛争にも目を向けてほしい」と話した。

父の桑島正義さん(左から2人目)の出征前日に母の冨美さん(同3人目)ら家族と写真を撮った正道さん(前列)=桑島正道さん提供
参拝団代表のあいさつを述べる桑島正道さん=17日、徳之島町亀徳のなごみの岬公園

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