島根半島の東の端に位置する島根県松江市美保関町に、大正末期から戦後にかけて、複数の水族館が存在していたことをご存じでしょうか?
地域の歴史を探求するグループの研究によって、これまで3つの水族館の存在が明らかになっていましたが、このほど、4つめの水族館があったことが確認されました。
知られざる地域の歴史ロマンに迫ります。
全国から広く信仰を集める美保神社が鎮座する美保関は、戦後まで松江市中心部と汽船で結ばれていました。
芸者さんと一緒の船旅の写真などが残されており、"手ごろな観光地"だったと推察できます。
その美保関に、何回も水族館が造られていたというのです。
この水族館の存在は、地域の歴史を探求するグループで代表を務める田村葉子さんの研究で明らかになりました。
田村さんによると、初代水族館は大正時代末期の1925年にオープンした「美保園」。
今でいうレジャーランドのような総合娯楽施設で、パンフレットには赤い三角屋根の水族館のほか、サル小屋、食堂や浴場などがかかれています。
地元の有志が兵庫の有馬温泉などを視察して造ったといいます。
初代水族館「美保園」設立者の子孫 三代暢実さん
「4代前の爺が考え出したもので、とにかく江戸時代以来北前船で栄えておった港が寂れてゆく、これじゃあいけんということで、観光業の中に是非水族館というものをやったらどうかと思い付いたようです」
境港に鉄道が開通するなど、物流中継地としての美保関の地位が低下して行く中、観光での活性化を目指したようです。
しかし、太平洋戦争開戦翌年の1942年頃に閉館したとのこと。現在は石碑が残るのみです。
2代目は、美保神社の入口脇に看板が写っている写真だけで、それ以外の記録は見付かっていません。
高度経済成長期の1955年にオープンした3代目は、竜宮城をイメージした建物でした。
そして、今回新たに確認された4代目は…
入江直樹記者
「おお、こちらですか!」
1988年のオープンで、「海洋展示館」という名前でした。
今、建物は倉庫になっていましたが、展示品の一部が残っています。
さらに奥を調べると。
生きもののわ 田村葉子さん
「ここに水族館の水槽の循環の跡ですかね。水族館の痕跡が探せばあちこちあるようです。」
建物の外にも鯉のぼりのような魚のイラストが残っています。
この日、田村さんが訪ねたのは、当時、地元漁協で4代目水族館に携わった松本美夫さんです。
4代目水族館に携わった 松本美夫さん
「漁協の倉庫の方、探してようやくこれ(図面)を見付けまして。」
水族館開設の発端は、当時最新の栽培漁業でした。
4代目水族館に携わった 松本美夫さん
「作り育てる漁業というのが謳われ出して。モジャコ(ブリの幼魚)を取って来て、生け簀に入れて大きく育てて、人に釣ってもらって楽しみながら販売すると、いう計画で。」
生け簀に水族館を併設し集客を図るというアイデアでした。
最初は西洋の城のような見るからに大きな建物や屋根上に展望台を造る
デザインなど様々検討されたものの、予算の関係で断念。
大小18の水槽でおよそ20種類の生きた魚介類を展示したほか、漁船の模型などが並んでいたようです。
さらに隣の海面には生け簀が並び、水族館とセット料金の釣り堀になっていました。
バブル期のレジャー全盛時代で家族連れの行楽を狙い、広島県からの観光客もあって賑わったそうですが、2004年に閉館。
こうして4代の水族館の存在が分かったものの、初代の閉館の経緯や写真しかない2代目など、まだまだ分からないことは多く残っています。
生きもののわ 田村葉子さん
「ご家庭に眠っている写真ですとかパンフレットですとか、それから証言ですね。思い出を松江観光協会美保関町支部に問い合わせ頂ければ、田村が集めておりますので、ぜひお願いしたいです。」
今回の研究成果は4月27日~5月7日まで地元で展示されるほか、4月28日にはガイドツアーも予定されています。
(問い合わせ先:0852-73-9001)
ツアーでガイド役を務める地元出身の朝倉さん、ふるさとの先人の意気込みを伝えたいと話します。
松江観光協会美保関町支部 朝倉功さん
「それまで商業の町だった所から一気に観光の町へスイッチする時代の流れの中で、水族館を当時の方たちが私財を投じて造られたということは、すごいことだなと。皆様方に少しでもイメージして頂けるような形でご案内が出来ればと思います。」
全ての謎を解明できる手がかりは、皆さんの家に眠っているのかもしれません。