“安打製造機”に先輩怒り…試合サボって授業出席 「自信を持ちすぎていた」大学時代

元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】

同志社大1、2年時は投手専念で活躍した田尾安志氏

中日、西武、阪神で活躍した元外野手の田尾安志氏(野球評論家)は、同志社大野球部に投手で入部した。大学2年の1973年は左の本格派投手として活躍し、リーグ戦優勝にも貢献。同年の日米大学野球選手権大会の大学日本代表メンバーにも選出され、米国遠征も経験した。投手として一気に才能が花開いた形だったが、そこに至るまでもいろんなことがあったという。大学3年からは投手と打者の二刀流選手になる田尾氏の大学1、2年時の投手専念時代に着目した。

同志社大野球部での新生活。「今みたいに部員が100人とかのチームじゃなくて4年生まで全部で25人。僕らの学年は8人でした。とにかく少なかったですね」。田尾氏は投手として入部した。「ピッチャーの練習ばかりしていましたけど、1年の春は1回も試合に出してもらえなかったと思う。1年秋に2試合くらい、ちょっこっと投げさせてくれたかな」。そんなスタートだった。

「あの頃は土曜日も授業があって、最初は土曜日に試合があっても僕は授業を優先していました。春はゲームに全く出してもらえなかったので、応援するだけならと思ってね」。高校時代から野球と勉強を両立してきた田尾氏らしいが「先輩から『ゲームの日は来いよ』って怒られた」という。「25人だから全員ベンチ入りできるのに、1人だけ行ってなかったのでね。みんな一緒の寮生活をしていたし、それからはゲームに行くようになったんですけどね」。

上下関係が厳しかった時代。先輩に言われたら、従うしかなかったようだが、2年生になると野球では左の速球投手として先輩にも負けないくらい力を発揮しはじめた。チームも強く1973年の春は関西六大学リーグで全勝優勝を成し遂げた。「あの時はタイプが違うピッチャーが3人。4年生がアンダースローで、1年生は右のオーバースロー、それに2年の僕が左投げ。みんな負けなかったんですよ」。

6月の全日本大学野球選手権大会は4強入り。準決勝は藤波行雄外野手(元中日)らを擁する中央大に0-5で敗れた。「その試合で僕は5回途中まで投げて7奪三振かなんかで2アウト一、三塁か一、二塁で3ボールになったと思う。コントロールは、やはりあまりいいピッチャーじゃなかったのでね。監督がマウンドに来て『大丈夫か』って言うから『大丈夫です。これを歩かせて満塁にして次のバッターをワインドアップで抑えますから』と言ったら代えられました」。

2年生で大学日本代表に選出…ドジャースタジアムでプレーした

結局、リリーフした4年生が打たれての敗戦。「僕はセットポジションがあまり得意じゃなかったので、ワインドアップで抑えますって言ったんですけどね。それで代えられましたからね。まぁ、ちょっと自信を持ちすぎていたかもしれない」。高校時代から負けん気が武器のひとつでもあった田尾氏は笑いながらそう振り返った。大学選手権準決勝のマウンド上での出来事。今ではそれも思い出のシーンになっている。

同志社大の主力3投手のうち、田尾氏だけが日米大学野球の日本代表にも選出され、米国遠征も経験した。「ドジャースタジアムで僕らはドジャース対レッズの前座試合だったんです。その後にロッカールームとかにも入れてもらいました。試合も見ました。ドジャースのファーストだったスティーブ・ガービーはかっこよかったですね」。大学2年になって一気にいろんな出来事に遭遇した。吸収することも多かった。無名だった高校時代には考えられないことばかりだった。

秋のリーグ戦も同志社大は優勝した。11月の明治神宮野球大会に出場し、こちらは準優勝。決勝で栗橋茂外野手(元近鉄)、中畑清内野手(元巨人)らが主力の駒大に3-6で敗れた。田尾氏は「9番・投手」で出場。「ソロホームランを打って、3ランを打たれたんです」。3回に自ら先制アーチを放ったが、その裏に2点を失って逆転され、1-3の7回には駒大・吉田秀雄捕手に痛恨の3ランを被弾した。

その翌年からだ。田尾氏は1974年の大学3年の春、投打の二刀流選手になった。「渡辺(博之)監督が何かよく打つなって、たぶん見ていたんだと思います。投げない時はファーストや外野とかをちょろっと守ろうかということでやり出したんです。自分でやりたいとか言ったわけじゃないですよ」。渡辺監督の見立ては大当たりだった。田尾氏の野球人生にはこれがまた大きなプラスになっていく。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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