天龍源一郎 1990年「夢の対抗戦」で新日本に失望も…直後のサベージ戦で得た大きな〝財産〟

対峙する長州、ジョージ組と天龍、タイガー組。セコンドで目を光らすザ・グレート・カブキ(右端=1990年2月、東京ドーム)

【プロレス蔵出し写真館】アントニオ猪木が参院選に出馬のため、新日本プロレス社長の座を坂口征二に譲ったのは1989年のことだった。このことは全日本プロレス、ジャイアント馬場社長との雪解けを期待させた。そして、それは早くも年明けのビッグイベントで垣間見えた。

今から34年前の1990年(平成2年)2月10日、新日の東京ドーム大会「スーパーファイトin闘強導夢」に全日のレスラーが出場するという画期的な出来事に、チケットの売れ行きは爆発的に伸びた。

ジャンボ鶴田は谷津嘉章とのタッグで最初で最後となった新日登場を果たし、木村健悟&木戸修組と対戦。鶴田が木戸にフライングボディーシザースドロップを決めフォール勝ちした。天龍源一郎はタイガーマスク(三沢光晴)と組み、87年以来の長州力(パートナーはジョージ高野)との対決が実現(写真)。両団体のトップ外国人同士、スタン・ハンセンとビッグバン・ベイダーのド迫力、危険な対決も行われた。

この年の1月27日にWWF(現WWE)のビンス・マクマホンJr.代表が来日。翌28日の全日、後楽園大会のリング上から「馬場さんの協力により、新日プロも参加しての合同興行が4月13日、東京ドームで行われる」と発表した。

全米に侵攻したWWFは1強となっていて、日本市場への参入も画策していた。単独では困難と考え馬場に共催を持ちかけたが、馬場は新日を加えた3団体での合同興行を提案した。

馬場は新日とタッグを組むことでWWFの日本侵攻を食い止められると判断し、いざとなれば新日と足並みを揃え対抗するということをビンスに示すためのものだったといわれている。

WWFに新日が協力することに不満を持ったWCWは、リック・フレアーとグレート・ムタ(武藤敬司)の新日、東京ドーム大会へ派遣する約束を反故にしてしまう。

坂口は馬場に相談を持ち掛け、「ベルリンの壁がなくなった」。そう発言していた馬場は全日選手の貸し出しを了承したのだった。

ところで、新日のリングで試合をした全日勢だったが、あからさまに不満を口にしたのは天龍だった。

「お互い3年のブランクを埋めきれなかった。闘志が空回りした。長州はジャパンプロ(レス)で全日に乗り込んできたときはホント格好よかった。今日の長州はその時の格好よさがなかった。ホントがっかりだな」。そう胸の内を明かした。

三沢も不満を口にした一人。「ゴーサインは馬場さんから出されたけど、その前に馬場さんに『やります』と言った。でも、試合は信頼置けないものだった」。三沢は新日に対して不信感を口にした。

元NタイムスK記者は当時、三沢の思いを馬場に直撃していたと明かす。

「馬場さんはハワイに行っていて試合は見ていないと言ってた。僕が三沢の話を伝えると『だから言わんこっちゃない。(新日は)信用ならん』と、予想してたとばかり吐き捨ててました。ジョージも好き放題やってたようですね」と明かした。

馬場が信用していたのはあくまで坂口個人だったようだ。

さて、「日米レスリングサミット」では全日勢はWWFと絡んだが、新日は所属選手同士の提供試合でお茶を濁した。この日のベストマッチは多くのファンやマスコミ関係も天龍 vs ランディ・サベージ戦と即答する。

試合は、開始早々天龍はサベージをロープに振ってチョップの構え。サベージはすぐさま場外にエスケープすると観客席からはブーイングと歓声で大盛り上がり。サベージのマネジャー、シェリー・マーテルも程よく天龍に手を出し、絶妙なスパイスとなった。試合は天龍が延髄斬りからパワーボムでピンフォール勝ち。名勝負となった。

後年、天龍は「自分のベストバウト。プロレス人生を振り返った時、分岐点はいろいろあったけど、この試合は間違いなくそのうちのひとつ」と語り、サベージに感謝を口にした。

ちなみに天龍とサベージは、その後SWSではタッグを結成。94年のWWF日本公演「マニア・ツアー」でシングル戦で対戦した。サベージとの遭遇は、天龍にとって貴重な財産となったようだ。

新日と全日の友好関係は長くは続かなかったが、この2大会は非常に意義のある大会だったといっていいだろう(敬称略)。

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