NHK「新プロジェクトX」で話題の「J-フォン」…統合にかかわった100人の老舗IT企業の物語

日本テレコム、英米2社と資本提携 /左から、ピーター ボンフィールドBT社長、坂田浩一日本テレコム会長、村上春雄同社長、ジョンDジグリスAT&T社長(東京・港区のホテルオークラ)(C)日刊ゲンダイ

2022年8月2日、創業32年目にして株式上場したIT企業がある。企業向けのクラウドシステムサービス会社「日本ビジネスシステムズ(通称JBS)」だ。虎ノ門ヒルズに本社を構え、売上高1128億円(2023年9月期)、社員数2500人の大企業ながら、いわゆるBtoBのため、一般の人には接点はあまりない。しかし、この会社の歴史はインターネットという文明の利器が黎明期から現在に至るまで、いかに世の中に普及してきたかを知る上でも面白い。社長の牧田幸弘氏は、慶応義塾大学卒業後の1979年に日本IBMに入社。「ITはこれから主要な産業になるかも」と予感。トップ営業から独立し、1990年に同社を1人で立ち上げた。今回、新刊「なぜ最先端のクラウド企業は、日本一の社員食堂をつくったのか?」(発売:講談社)から、日本のIT史にかかわった物語を紹介する。(以下、本文を一部再編集しています)

◇ ◇ ◇

先日、NHKの「新プロジェクトX~挑戦者たち~」で2000年に発売された「カメラ付き携帯電話」の開発物語が注目されました。番組には、J-フォン(現ソフトバンク)とシャープの技術者たちの世界初の挑戦が描かれましたが、2001年には筆頭株主の日本テレコムが英ボーダフォングループの傘下に入ることで、J-フォンはボーダフォングループに。03年にはJ-フォンは会社名・ブランド名もボーダフォンに変わります。その過渡期に、オフィス移転とシステム統合を手掛けたのが、当時100人ほどの中小企業だったJBSでした。

いまでは社員数2500人の大企業になったJBSが、大きなプロジェクトを手掛けて会社として飛躍していくのが2000年以降。IT業界にとって革新と進化の時代に入った頃でした。

◇ ◇ ◇

JBSにとって最初の大きなプロジェクトが、2002年に行ったJ-フォンのオフィス移転と、それに続くシステムの統合です。東京の御茶ノ水、初台、信濃町の3カ所にあったJ-フォンのオフィスを、2001年7月に竣工したばかりの愛宕グリーンヒルズMORIタワーへ移転・統合する作業と、合計7000人ほどの社員のメールシステムをMicrosoft Exchangeに切り替える作業をJBSが受注したのです。

今回は、この小さなIT企業の物語を紹介します。

ここで、J-フォンについてご存じない若い方のために、歴史的背景を簡潔に書いておきます。J-フォンは、国鉄の通信設備を引き継いだ日本テレコムの子会社で、1991年から92年にかけて東京デジタルホンなど「デジタルホン」という名前で設立され、 東名阪をエリアとする携帯電話事業としてスタートしました。94年から95年にかけては、日産自動車と一緒に「デジタルツーカー」各社を九州・中国・東北・北海 道・北陸・四国の順に設立。1999年に日産が経営難で携帯電話事業から撤退したことをきっかけに、J-フォンを全国統一ブランドおよび社名に採用しました。

先述の2000年にJ-フォンから発売された「J-SH04」という機種は、今のカメラ付きケータイの原型となった伝説の機種で、「写メール」というサービスは通称写メと呼ばれ、携帯電話で写真をメールで送ることを指す一般名称となりました。2001年には親会社の日 本テレコムがJRとの資本関係を解消したことで、イギリスのボーダフォン・グループが 買収。06年にはソフトバンクグループに売却され、現在はソフトバンクブランドで事業が続いています。

7000人の会社の移転とシステムの切り替えを受注

JBSがJ-フォンのプロジェクトを受託したのは2002年です。01年にイギリスのボーダフォン・グループに買収され、アメリカ人のダリル・E・グリーン社長とCFOのジョン・ダーキン氏によって立て直しがなされている頃でした。きっかけは、01年の暮れに当時のJ-フォンナンバー2のジョン・ダーキン氏からかかってきた1本の電話でした。ダーキン氏はJ-フォンに来る前、ナイキジャパンの役員を務めており、そのときからJBSの牧田氏と懇意にしていたのです。

「3カ月後に移転することが決まった。次にメールシステムを切り替えたい。JBSはで きるか?と聞かれました。長年お世話になってきたジョン・ダーキンさんの頼みに応えるしかありません。ただし今まで経験したことのない大きな仕事でしたので不安はありました」(牧田氏)

7000人の社員のメールシステムを別のシステムに切り替えるのは、電灯のスイッチをオンからオフに切り替えるような簡単なものではありません。例えばデータ移行です。古いシステムで使っていたすべてのメール、カレンダー情報、アドレス帳などのデータを移行する必要があります。これは、大量のデータを扱うため、時間がかかりますし、データの損失や破損を防ぐため、慎重に行わなければなりません。

システム設定作業も煩雑です。新たなメールサーバーの設定や、セキュリティー対策、 バックアップシステムなどを構築する必要があります。これには専門知識が必要ですし、複雑な作業が伴います。

100人の中小企業に白羽の矢が立ったワケ

なぜそのような大きなプロジェクトを当時100人ほどの社員しかいない中小企業のJBSが受注することができたのでしょうか。社員数7000人のJ-フォンとは社格が完全に釣り合いません。ジョン・ダーキン氏によってJBSに白羽の矢が立ったのは、ナイキ時代から知っている牧田氏に絶大な信頼を寄せていただけではなく、ほかに出来る会社がなかったという事情もありました。

2001年ごろの日本の企業はMicrosoft Exchangeではなく、他のメールシステムを主に利用していました。当時の日本のIT関係者にとってExchangeはあまり知られていない存在であり、そのため取り扱えるシステムインテグレーターが少なかったのです。実際、ジョン・ダーキン氏が問い合わせた会社は、すべて「できない」という回答を返してきたそうです。 その点、早い段階からマイクロソフト製品を扱っていたJBSは、規模こそ大きくはありませんでしたが、ほかのメールシステムからマイクロソフトExchangeへの移行はかなりの数をこなしていました。ノウハウの蓄積が十分あったのです。

あとはビッグスケールに対応できるかどうかだけが課題でしたが、「大変ではあるが、 やれなくはない」と牧田氏は考えました。そこに確たる根拠はなく、「お客さまがどうしてもやりたいというならやるしかない」という意気込みだけでした。 移転の期限は2002年4月、システムの統合期限は同年8月と決まりました。ジョン・ダーキン氏から牧田氏へのホットラインが2001年の末でしたので、作業に許された時間はほとんどありません。しかも、複雑な事情がこの移転プロジェクトをさらに困難なものにしていました。

移転プロジェクトのリーダーを任されたJBS社員のSさんいわく、「突然外資系企業の傘下になり、プロジェクトが終わったら自分の立場はどうなるのか分からないというお気持ちがあったのでしょう。先方のシステム担当の方々の協力を得るには非常に難しい状況でした。しかも、実務を担当するのはどこの馬の骨か分からない中小企業。気持ちはよく理解できました」。

Sさんは社内からかき集めたエンジニ ア十数人とともに、JBSにとっては過去最大級といえるビッグプロジェクトに挑みました。オフィスのシステム移転に際しては、まず、サーバー、パソコン、電話機などのハードウエアが、どこに何台設置されていて、どのように接続されているかという現状を把握する必要がありました。しかし、通常の方法で依頼しても、その情報は現場の社員からは得られませんでした。

現場から情報が得られなかった理由は、ほかにもあります。当時携帯電話事業会社は拡 大しており、J-フォンも例外ではなく、現場の判断でさまざまな配線を行い、独自のシステムを構築していました。それらはすでに管理不能であり、Sさんによればカオスと言える状態でした。つまり、システム全体の概要を正確に把握している人が、現場には一人もいなかったのです。

そこで、メンバーは役割分担して、3つのオフィスに毎日足を運びました。それぞれの部門の担当者にアポイントを取り、「すみません、少しお話を伺わせていただけますか?」と尋ね、使用している機器やルーターに関する情報を、「これはルーターですよね? お手数ですが、回線番号だけメモさせていただいてもよろしいですか?」といった質問をしながら、まるで探偵のように地道に情報収集を行ったのです。

フリーアドレスが当たり前の今のオフィスでは考えられない作業もたくさんありました。 例えば固定電話に関する作業です。当時は全座席に固定電話を設置するのが基本で、愛宕 グリーンヒルズの新オフィスでも合計約1800台を設置することになりました。無事設 置を終え、いよいよ翌日から社員の荷物が入ってくるという日の夜、突然、搬送によるホコリなどで汚れないよう全ての電話機にカバーをかける作業を行わなければならなくなっ たのです。 搬入開始まであと半日しかありません。しかも夜を徹しての作業となります。今ならコンプライアンス的にレッドカードですが、Sさんには不思議と悲壮感はありませんでした。

「その時の当社の規模からしたら、J-フォンのような有名企業から仕事をもらえるだけ でもすごいこと。自分たちがこんな大きな仕事を受けていいのかと思ったほどで、むしろ やりがいの方が大きかった」からです。

結局、外部委託業者の協力も仰ぎながら、朝までに1800台すべての電話機にカバーをかける作業を終えることができました。

現在は、いつでもどこでもコンピューターサーバーにアクセスできるクラウドになったため、このような大掛かりな引っ越し作業は不要になりました。平成の時代ならではのプロジェクトだったと言えるでしょう。

© 株式会社日刊現代