大谷はアスリートだった両親の元、「ずいぶんしっかりした顔つき」で産み落とされた【二刀流の血脈 世界に誇るパワー編】#1

「翔平」という名前の由来は源義経(C)日刊ゲンダイ

【二刀流の血脈 世界に誇るパワー編】#1

ドジャースで活躍する大谷翔平(29)はいかにして世界屈指のパワーを手に入れたのか。

日刊ゲンダイが過去に連載した「秘話 大谷翔平『二刀流の血脈』」をパワーに焦点を当てて再編し、その軌跡を紐解いていく。今回は第1回。

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1994年、岩手の盛岡は真夏日が48日間もあった。

大谷は7月5日午後9時6分、その盛岡から50キロほど南に下った奥州市水沢で産声を上げた。

体重は3400グラム。赤ん坊としては大きい方だった。生まれたての赤ん坊は通常、顔がくしゃくしゃだが、産婦人科の看護師は「ずいぶんとしっかりした顔つきのお子さんですね」と驚いた。大谷が生まれた直後あたりから水沢も真夏日が続き、家のエアコンはつけっ放しだった。

「翔平」という名前の由来は源義経だ。父親の徹さんはもともと「翔」の字が気に入っていた。羽ばたくというイメージがあって、京の五条の橋の上で弁慶の攻撃をかわした身軽な義経と重なること。さらに大谷の生まれた水沢から程近い平泉は、義経が自ら命を絶った場所であることから、平泉の「平」の字をもらって翔平と名付けたという。

徹さんは元社会人野球の選手。黒沢尻工(岩手)時代は甲子園を目指し、三菱重工横浜では外野手としてプレーした。三菱重工横浜の野球部には、徹さんも含めて高校出身の同期が4人いた。そのうち2人はプロ入り、ひとりは阪神の村山実監督時代に活躍した中野佐資だ。

徹さんもプロが目標だったものの、志半ばで断念。故郷の岩手に戻って以降は、自動車のボディーメーカーに勤務、昼夜2交代制で車体を造る過程のラインにしばらく携わっていた。

母親の加代子さんはかつて、バドミントンに打ち込んだ。中学3年時に神奈川県代表メンバーに選ばれ、全国大会へ。団体女子の部で準優勝した。決勝で敗れた相手は92年のバルセロナ五輪に出場した陣内貴美子のいた熊本県。このときの全国大会決勝を含め、同学年だった陣内とはこの後も何度か対戦。卒業後はインターハイの常連校だった横浜立野高に進学した。(つづく)

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