他人様のお金を黙って懐に入れたら…「1万円札」をめぐる2つの思い出【タクシードライバー哀愁の日々】

「1枚多いわよ」(写真はイメージ)/(C)日刊ゲンダイ

【タクシードライバー哀愁の日々】#16

古典落語で有名な「時そば」は、そば代を支払うときに何度も「いま、何時だい?」と尋ねて、そば屋の注意をそらしなんとかそば代をごまかそうとする客の話。幸いなことに私はそんな客に遭遇したことはない。

もっともいまは、ほとんどのお客が電子マネーやクレジットカードで支払うから、「時そば」を企てようにも不可能だろう。

だが、私がこの仕事をはじめたころは、現金払いが主流だったから、支払いの際には結構、神経をつかった。なんといっても料金メーターの記録通りに会社にお金を納めるのがルールだから、間違ってお釣りを多く渡してしまえば、そのマイナス分は自分が負担することになる。10円、20円の誤差なら笑ってすませられるが、1000円、2000円ともなるとそうはいかない。1000円、2000円の料金で1万円札を出された場合など、素早く何枚もの1000円札を数えてお釣りを渡さなければならない。クシャクシャになった札なら間違えることはまずないが、新札が重なっているときなどは要注意だ。

高齢者なら誰でも実感することだが、年を取ると指先も脂分が抜けて乾いているから新札を数えるのに苦労する。だからといって、指先をナメナメしていたら不衛生だし、なによりお客が不快な思いをする。そのせいで、大した額ではないが、これまでも何回かお釣りの間違いで損をしてしまったこともある。

逆のケースもあった。あるお客が支払いの際、料金トレーに1万円を置いた。料金は3800円。6200円を渡すといそいそと降りていったのだが、渡された1万円札を確かめてみるとなんと2枚重なっていた。ピン札だったのだ。あわててクルマを降り、あたりを捜したが、お客の姿はどこにもなかった。会社に報告すべきかとも思ったが、「あえて事務員の仕事を増やすのか? 多めのチップと思いなさい」という悪魔の声に負けてしまった。そのお客はレシートも受けとらなかったから、あとで「しまった」と思っても調べようがない。私は「自分のミスではない」と自分に言い聞かせつつも、数日間はやはり罪の意識が消えなかった。

■正直女性の言葉

この一件から半年ほど経ったころ、1万円札ではこんなこともあった。70代後半の女性を乗せたときのこと。庶民的なおばあちゃんといった雰囲気の女性だった。クルマを降りる際に、1万円札を渡され、お釣りの三千数百円を渡した。すると、ほほ笑みながらこう言ってきた。「1枚多いわよ」。指の脂が抜けてしまって、だからといってなめるわけにもいかずと私は苦笑しながら説明し、「いいお客さまで助かりました」と礼を言った。すると「他人様のお金を黙って懐に入れたらバチが当たらぁ。お天道様は見てっから」と下町口調で答えてくる。そして、私の手に自分の手を重ねながらこう続けた。「ほれ、これがいままで一生懸命働いてきた手。まるで白魚のような手だろ」。そしてカッカッカッカと笑いながらクルマを降りていった。女性の生業は知る由もないが、その手の感触は硬くゴツゴツとしたものだった。正真正銘の労働者の手だった。

私は半年前の「1万円チップ事件」を思い出していた。決して意図して得た1万円ではなかった。だが、女性を降ろした後、私はフロントガラス越しに強く差してくるお天道様の光をいつもよりまぶしく感じていた。

(内田正治/タクシードライバー)

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