異端の発想もいとわぬ伊藤匠七段 対藤井八冠初勝利の前に繰り出した「持将棋定跡」の意義

藤井聡太八冠から初勝利を奪った伊藤匠七段(日本将棋連盟提供)

20日に行われた将棋の叡王戦五番勝負の第2局で挑戦者の伊藤匠七段(21)が、藤井聡太八冠(21)を破り対戦成績を1勝1敗とした。伊藤七段は対藤井八冠との公式戦13戦目にして待望の初勝利をあげた。

これまでの対戦成績は11敗(1引き分け)で、このうち唯一引き分けに持ち込んだ対局で伊藤七段の魅せた「持将棋(じしょうぎ)定跡」が高く評価され、第51回将棋大賞の升田幸三賞に選ばれた。

同賞は毎年、新手や話題となった戦術・戦法に対して贈られる賞で、現代将棋の様々な定跡型の礎となる戦法を生み出した者に与えられる。

ちなみに「持将棋」とは互いに十分な戦力を残したまま互いの玉が相手方の陣地に入り込み(=入玉)、このまま勝負を続けてもらちが明かなくなった場合、対局者双方の合意によって〝引き分け〟とするルールのこと。

つまり、「持将棋定跡」とは「勝負を引き分けに持ち込む作戦」のことで、一見あまり意味がないようにも見える。しかし、先手が有利とされる将棋では引き分け後の指し直し局(再対局)で先手と後手が入れ替わるため、後手番が引き分けを手にすればシリーズ全体でメリットとなる。

伊藤七段がこの「持将棋定跡」を披露したのが、今年2月に行われた藤井八冠との棋王戦第1局だった。先手・藤井八冠、後手・伊藤七段で始まった対局は129手でお互いが「このまま続けても決着がつかない」状態であることに合意し持将棋(=引き分け)が成立。

「持将棋」決着自体は、プロ同士の対局でしばしば見受けられるものの、「積極的に持将棋に持ち込む」という発想自体が想定外で、複雑難解な中盤戦を乗り越えた先にある「持将棋」を「定跡化する」というアイデアはプロ棋士にもなかったかもしれない。

「角換わり腰掛銀」という戦型で始まった棋王戦第1局は、序盤から両者ともほとんど持ち時間を消費することなく70手目まで進んでいった。この戦型は近年、プロ同士の対局でも数多く見られ、また将棋ソフト同士の対局においても頻出するバランス型の戦型である。過去にも前例のある70手目を超えたあたりから、伊藤七段の「持将棋定跡」が発動する。伊藤七段は意図的に、「藤井八冠が最善手を指し続けると必然的に持将棋に陥る」という状況を作り出したのだ。

引き分けを前提に駒組を進める伊藤七段に対し、勝ち筋を必死に探る藤井八冠。たとえるなら、判定に持ち込む前提で戦うアウトボクサーとKO勝ちを狙うインファイターといったところだろう。

藤井八冠は83手目で本局初めての長考。そしておそらく、この52分の中で、藤井八冠は伊藤七段の戦略に気づいた。殴り合っている相手のパンチが「勝利」に向かっていない。どう読みを進めても「持将棋」がチラついてくる。これを打開しつつ局面を好転する方法を模索するも、どうもうまくいくビジョンが見えない。かといって大ぶりのパンチに対しては強烈なカウンターが用意されている…。

ここから終局までの数時間、藤井八冠は伊藤七段の「手のひらの上」で踊らされた。引き分けを回避せんとするあらゆる手順が、自分の形勢を著しく損ねる選択であり、必然的に、伊藤七段の意図する持将棋への道筋をたどらざるを得なかった。

AIにより、時代から取り残された戦型が見直され、再評価されたこともあった。一方で、今回の伊藤七段による「持将棋定跡」の発見を「角換わり腰掛銀」の結論のひとつであると考えるのであれば、それはAI研究による〝戦型の終わりの始まり〟ということもできる。今後もAIを駆使し研究を突き詰めていく中で、同様に一つの戦型の結末が「持将棋」あるいは「千日手」(=引き分け)として「定跡化」されるならば、その戦型が淘汰されていくことになるかもしれない。

藤井八冠を倒すために将棋界の常識をも覆した伊藤七段が初白星を手にしたインパクトは大きい。同級生対決は将棋の未来を動かそうとしている。

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