ピアノはなぜ「女性にもっとも望ましい楽器」とされたのか? 女性音楽家を巡る歴史を知る2冊

2022年12月、女性奏者だけオーケストラ、東京女子管弦楽団が発足して話題になった。創設したのは、自身もヴァイオリニストであり、音楽家派遣会社「サウンド東京」の社長でもある福元麻理恵氏。

「音楽大学で学ぶ人は圧倒的に女性が多いのに、なぜオーケストラの楽団員では逆転するのか」(『朝日新聞』2023年3月8日付)

長年抱えていたそんな疑問が、女性だけの楽団結成の動機になったと話している。現在、国内オーケストラ全体での団員の男女比は半々に近く、そこまで悪い数字には見えないが、音楽大学の学生の7割が女性であることを考え合わせると、女性の比率が少ないとは言えるだろう(なぜ音楽大学の学生には女子が多いのか、という問題と考え合わせる必要があるが)。

甚だしいのは常任指揮者や芸術監督で、男性率ほぼ100%である。

内外を問わず、女性の音楽家が不当に低く扱われてきたのは歴史的事実である。

まず、女性が演奏するのにふさわしい楽器、ふさわしくない楽器の区別が社会通念として規範化されていた。ピアノやヴァイオリン、ハープやフルートなどが女性が演奏するのに好ましいとされていたのに対し、チェロやコントラバスなどは好ましくないとされた。優美であるべき女性が操るのに似つかわしい楽器、あるいは、家庭にいるべき女性にふさわしい楽器という具合に。

木管、金管、打楽器が御法度だったのも女性の美しい顔が歪む、容姿にそぐわないと忌避されたからだが、軍楽隊との結びつきが強い楽器であるというのも大きな理由だった。

女性が音楽を学び、楽器をたしなむことが推奨されたのは、良妻賢母になるための修養であり、女性が自立するための教養や技能とは考えられていなかった。

史上初の女性だけのオーケストラ
マリア・ノリエガ・ラクウェル『キッチンからカーネギー・ホールへ』(ヤマハ)

それでも教育を受けたなかから、音楽家としてステージに立つ女性が現れてくる。女性の楽壇への進出は少しずつ進んでいったが、女性演奏家は、たとえ実力があったとしても、容姿や物珍しさで起用されることがほとんどだった。

ましてやオーケストラに君臨し統括する指揮者に女性が成るなんて、通念の埒外だった。女性に主導されるなんて屈辱だと大半の男性音楽家は思っていたし、また肉体的、精神的にも女性に務まるとは考えられていなかった。

それでも歴史に名を残したり、現在、活躍している女性指揮者がいないわけではない。先駆者として挙げられる名前はいくつかあるが、本書マリア・ノリエガ・ラクウェル『キッチンからカーネギー・ホールへ』(ヤマハ)の主人公エセル・スタークもその一人だ。

エセルがユニークだったのは、自分の交響楽団を作り上げてしまったことだ。それも楽団員全員が女性という、史上初のオーケストラである。

エセル・スタークがカナダはケベック州モントリオールに生誕したのは1910年。両親はユダヤ移民で、モントリオールにはユダヤ人コミュニティがあった。

リベラルな両親に支えられて育ったエセルは、ヴァイオリンに才覚を現し、17歳のとき、フィラデルフィアの名門カーティス音楽院(CIM)を受験する。この、学費全額支給が約束された、世界的才能を発掘するための試験に、エセルは合格し、カナダ人女性初の学生となった。女性というだけで試験さえ門前払いになることが珍しくなかった時代に、まさに快挙だった。

以後のエセルの軌跡を追うとこういう具合である。

CIMで女性としては初めて指揮法を学び、演奏家としても嘱望されて卒業して名声を得たものの、大恐慌の影響もあり常任の仕事は得られなかった。キャリアのためニューヨークへ渡ったが、音楽界は閉鎖的で女性が締め出されている現実に直面する。

エセルは、フィル・スピタルニーが率いる「魅惑の時」オーケストラのオーディションを受け入団する。「魅惑の時」オーケストラは女性だけのオーケストラで、プロの楽団ではあったが、女性演奏家の容姿を見世物にする性格のものだった。契約には、体重制限や恋愛禁止が織り込まれていた。

ギャラはよく友人もでき、楽団の顔にもなってそれなりに楽しく過ごしていたが、夢のためにはここにいるべきではないと数年で「魅惑の時」オーケストラを辞め、楽団で得た相棒のピアニスト、ソニア・スラーテンとともに女性だけのオーケストラ結成に動き出す。

エセルとソニアはまず小編成のニューヨーク女性室内管弦楽団(NYWCO)を結成し評判を取った。楽団は成長を続け、エセルの指揮も評価を高めていったが、彼女の野望は女性だけでフル編成のオーケストラを組み指揮者に就くことだった。だが、金管、木管、打楽器の女性演奏家が絶対的に不足しており、見通しは暗かった。世界は戦争へ向かっていた。

戦時下のモントリオールに、仲間との弦楽四重奏団でヴァイオリンを演奏することで慰めを得ていた裕福な婦人がいた。マッジ・ボウエンは次第に、もっと大きなグループを作って多くの女性たちが演奏の機会を持てるようにできたらと夢想し始める。

強力なリーダーが必要だ。そう考えていたとき、ラジオでエセル・スタークの名前を聞き、彼女ならぴったりだと連絡先を探し出し接触した。二人は意気投合した。

こうして史上初の女性だけのオーケストラが誕生することになった。

概略だけ抜き出せば運に味方されたトントン拍子に見えるかもしれないが、運を引き寄せるのも才能というように、各局面には、当時の女性たちが被っていたのと同じ抑圧や差別による困難が立ちはだかっていた。エセルはそれらを打ち破ってきたのである。

印象的なエピソードをひとつ。CIMの2年に進んだとき、エセルは指揮法の講義を取ろうと責任者であるフリッツ・ライナーを訪ねた。専制的な暴君という指揮者のイメージを体現したかのような人物だったライナーは当然、指揮は男の仕事であると考えており、「女性は指揮法の講義を受講すべきではない」とエセルをはねのけた。

エセルは、ライナーの強権的な態度にもひるまず指揮法の受講を強行し、ライナーもやがて彼女の才能を認めざるをえなくなる。それどころか、自分のオーケストラのソリストに指名するほど惚れ込むにいたる。

面白いのは、指揮法の講義に勝手に出ると決めたエセルの心理だ。権威に対する抵抗とか、女性の地位向上のための闘いといった意識はエセルには薄かったようだ。指揮法を学ぶことが自分には必要だから受講するのが当然、と考えたらしい。

「若きエセルが、男性ばかりの指揮法の講義に自分も参加する資格があると考えたのは驚くべきことである」と著者は書いているが、エセルのこうした精神は、リベラルな両親と彼らの築いた家庭環境によって育まれたものだった。

エセルとマッジが作り上げた女性だけのモントリオール女性交響楽団にしても順風満帆ではなかった。最初の困難は、言うまでもなく楽団員集めだった。何しろ女性の金管、木管、打楽器奏者はほとんど存在しないのだ。

エセルとマッジは、いないなら育てるしかないと腹を決めて、経験不問、少しでも楽譜が読めればOKと、門戸をこれ以上ないほど広く開き、素人の寄せ集めのオーケストラが何とか出来上がった。

次なる困難は、楽器である。素人だから楽器を持っていないのだ。死蔵された故障品などを掻き集め、10日後には楽団の体裁が整い、半年後にはデビューコンサートを開いたというのだから驚きである。さらに驚くことに、7年後にはカーネギー・ホールへ招聘され、大成功を収めるのである。

モントリオール女性交響楽団は、年齢や肌の色など一切の背景を問わず、すべての女性に開くことを理念としていた。その理念が、人材が足りないという現実に後押しされて実現されたものだったという点に、思想が先走った運動などとは異なる地に足の着いた凄みを感じる。

明治期の音楽エリートだった幸田延の光と影

女性にもっとも望ましい楽器はピアノであるという規範は、日本にもあった。

持ち運びができず、座った態勢で演奏するしかないピアノは、女性は家にいるべき存在であるという社会通念によく合致していた。

同時に、女性がピアノを弾けるということは、娘にこの高額楽器を買い与え習わせることができる家の出身であるというステイタスの証、文化資本の象徴だった。「ピアノは持参金」と言われたこともあったそうだ。

だが、日本と西洋ではピアノにくっついていた規範に違うところもあった。それは近代化を急いだ明治日本が性急に西洋音楽を移植したことによる。

玉川裕子『「ピアノを弾く少女」の誕生 ジェンダーと近代日本の音楽文化史』(青土社)は、明治期の西洋音楽導入以降のピアノの受容と広がりを、「ピアノを弾く少女」というイメージをめぐる変遷を軸に読み取った研究書だ。

著者が意識の裏に置いている問題は次の数点である。

・西洋音楽が普及していくなかで、なぜピアノが王座の位置を占めるようになったか。
・ピアノの習い手が、娘や妻、つまり女性に偏っていたのはなぜか。
・(これは現代にまで通じている問題だが)ピアノを専門的に学んでも、女性の自立に結びつかない(仕事がない)のはどうしてか。

具体的な構成はこういう具合である。

ピアノをはじめとする楽器を小道具に使った小説や少女雑誌のイラスト等から、楽器が帯びていたイメージを拾い出す。ピアノの登場以前、少女が弾く楽器といえば琴だった。ピアノが良家の子女のたしなみ、少女の憧れの対象となっていくのと入れ替わりに、琴のイメージは悪化していく。女性に望まれた楽器の次点がヴァイオリンだったのは西洋と同じだが、琴と合奏する小説が存在したというのが興味深い。「和洋折衷」は音楽教育に対する政府の方針でもあった。

文学に関しては、夏目漱石の作品を題材に、登場する楽器や、弾き手の性別や階層に対する検討が行われている。

続いて、百貨店の音楽事業と広告戦略のイメージが洗い出される。ターゲットは三越だ。三越は、少年音楽隊を組織する、休憩室にピアノとヴァイオリンを置くなど、文化への貢献も重要だという理念を当初から持っていた。

三越の楽器販売戦略は、文化事業の体裁でまず西洋音楽や楽器を紹介し、新ライフスタイルの提案と啓蒙を行ってから、実際の楽器を売り出すという手順をたどった。もちろん広告でも新ライフスタイルが訴求された。

新ライフスタイルの提案と啓蒙は、この頃問われていた「家庭音楽」という概念と紐付いていた。良き趣味としての音楽は家庭においてどうあるべきかというような議論だ。議論というもののお手本は西洋に求められていた。それは、

「主婦がピアノを奏でると、主人や子どもがこれを囲んで歌い、家庭が真の楽園になる」

というイメージである。こんな「楽園」はもちろん実現しなかったわけだが、「ピアノを弾く主婦」は「ピアノを弾く娘」に横滑りする。中間層の隆興とピアノの普及が交差して、ピアノ=女性の弾くものという結びつきを強固にしたのである。

最後に正直な感想を述べよう。本書は既発表の複数の論文を編んだもので、主題間の繋がりがあまり良くなくまとまりに欠ける。ピアノを弾くのはなぜ女性かという問いにしても、そりゃ何しろ高価だし、良家の子女のたしなみとして富裕層があてがったのが中流層にも降りてきたからでしょ、という予断を裏切るところがあまりない。

では読むべきポイントがないかというと、そんなことはない。具体的には第6章「女性職業音楽家の光と影」だ。

明治の西洋音楽移植は、伊澤修二率いる音楽取調掛が担った。音楽取調掛は東京音楽学校に発展し、東京藝術大学となった。

音楽取調掛の設置は、儒教的な伝統復権を求めた教学聖旨の発布と前後していた。最初は男女問わずに教員候補である伝習生を受け入れていたが、音楽学校の体裁が整うと伝習生は男子のみとされ、女子の入学は禁じられた。

ところがその4年後に、女子の入学が復活する。人材不足のせいだ。音楽を習うことが奨励されていたのは女子ばかりで、男子一生の仕事とは考えられていなかった。男女別学が制度化され、女性が高等教育を望むのが難しくなったときに、音楽取調掛は逆に門戸を開いたのである。

本邦唯一の音楽教育機関の女性比率が高いとなれば、傑出した女性音楽家が出現するのは必然である。

この章でフォーカスされるのは、幸田延。唱歌教育の実験校であった東京女子師範学校(お茶の水女子大の前身)の附属小学校で、伊澤修二とともに唱歌教材を編んだルーサー・ホワイティング・メーソンから直々に音楽教育を受け、ピアノを習い、音楽取調掛の伝習生になったという筋金入りの音楽エリートである。ちなみに延は、幸田露伴の姪である。

欧米への留学を経て音楽取調掛の教職に就いた延は同校の中心的存在となる。皇族の音楽教育係なども務めていたが、不可解に退職して在野の音楽家となった。

後の研究によると、延をめぐって学内やジャーナリズムでバッシングがなされていたらしい。それと前後して東京音楽学校の校長が代わり、男性を重用する方向へ改革された。つまり延は追い出されたのだ、というのだ。

ここで意味を持ってくるのが「家庭音楽」である。延の顛末の背景では、女性の自立、立身出世にとって希少な手段としての音楽と、家庭に楽園をもたらすたしなみとしての音楽というイメージが衝突を起こしている。音楽教育や楽壇が制度として確立し権威化するなかで中枢が男性で占められるようになり、後者「たしなみとしての音楽」が勝ち残ったということだろう。

この第6章を中心に本書は読まれるとよいと思う。

(文=栗原裕一郎)

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