3歳のとき、特別養子縁組で育ての親のもとへ。10歳で父が、16歳で母が亡くなった後も育ての親への愛と感謝は変わらない【シンガーソングライター・川嶋あい】

シンガーソングライター 川嶋あいさんは、3歳のとき特別養子縁組で育ての親に迎え入れられました。それまでは福岡にある児童養護施設で過ごしていました。川嶋あいさんが、自身の出生について知ったのは中学1年生のときです。衝撃を受けたものの、親子関係がくずれることはなかったと言います。
育ての親との出会いや川嶋さんがどのように育てられてきたのかについて聞きました。
2回インタビューの2回目です。

【シンガーソングライター・川嶋あい】19歳で特別養子縁組の当事者であることを公表。13歳まで「育ての親」を実の親と信じていた

生みの親は生後半年で逝去。3歳まで乳児院と児童養護施設で過ごす

4歳の川嶋あいさん。育ての親に大切に育てられてすくすく成長。

川嶋あいさんは、生まれてすぐに福岡の乳児院に預けられ、その後、児童養護施設に移っています。育ての親と出会ったのは、児童養護施設にいたときです。川嶋さんが特別養子縁組で迎え入れられたのは1989年。2020年の民法が改正されるより前のことです。

――育ての親との出会いについて教えてください。

川嶋さん(以下敬称略) 私の生みの母は、私が生後半年のときに病院で亡くなっています。そのため私は、福岡の乳児院と児童養護施設に預けられていました。
児童養護施設では、私に何回も会いに来てくれる40代ぐらいの男性と女性がいました。その人たちは、いつも私にまっすぐに会いに来てくれて「元気だった?」と笑顔で優しく話しかけてくれます。でも、しばらくすると帰って行ってしまうんです。私は、その人たちをお父さんとお母さんだと思っていたので「なんで、私のことを連れて帰ってくれないんだろう?」と不思議に思っていました。寂しかったです。

当時、私はまだ3歳だったので、児童養護施設に預けられていることを理解していませんでした。子どもたちとお泊まり保育にでも参加しているような気分で毎日を過ごしていました。

迎え入れられたときは、本当の両親だと思っていた

9歳のとき育ての母・のり子さんと。

川嶋あいさんは、特別養子縁組の手続きをへて、3歳のとき福岡にある育ての親の家に迎え入れられました。

――新しい暮らしについて教えてください。

川嶋 先ほども話したように、私は育ての親のことを、本当のお父さん、お母さんだと思っていたので、知らない人に引き取られたとは思いませんでした。
育ての父は、福岡で土木建設会社を経営していました。父は物静かで優しい人でした。休日は私とトランプをしたり、オセロをしたり、遊園地に連れて行ってくれたりしてよく遊んでくれました。

育ての母は、とにかく明るくて豪快な人でした。従業員や近所の人などを家に招くことが大好きで、母がいるだけでその場の雰囲気がぱっと明るくなるような感じの人でした。私が小学生ぐらいになると、母の提案で、私の友だちを誘って一緒に旅行に行ったこともあります。

「施設に帰りたい」と泣く娘を心配して音楽教室へ

東京に上京して路上ライブが話題に。

幼い川嶋あいさんを迎え入れたばかりのころ、育ての母は娘への接し方に悩んだそう。そのときお母さんが頼ったのが、近所に住む元保育士さんでした。

――子育てに悩んだりはしなかったのでしょうか。

川嶋 私はまったく覚えていないのですが、引き取られたとき、毎日のように「施設に帰りたい」と泣いていたそうです。「どうしたらいいんだろう?」と思い悩んだ母は、たまたま近所に元保育士さんがやっている音楽教室があって、子育て相談をするためにその教室に私を連れて行きました。

先生に「あいちゃん、ちょっと歌ってみる?」と言われて歌ったところ、私がみるみる笑顔になって笑いかけてくるのが母はうれしかったらしく、音楽教室に通うようになりました。

――川嶋あいさんの原点ということでしょうか。

川嶋 そうですね。育ての母に音楽教室に連れて行ってもらっていなければ、今の私はいなかったかもしれませんね。

母との思い出は、とにかく音楽です。しだいにコンクールなどにも出るようになったのですが、母はよく「練習しなさい」と言ってきました。
コンクールが終わると、どんな結果でも笑顔で「よく頑張ったね」と言って喜んでくれました。私は大好きな母に喜んでほしくて「もっと頑張ろう!」と練習に励みました。

でも思春期になると、母から「練習しなさい」と言われることが嫌で嫌で、家を飛び出したこともあります。音楽教室の先生のところに相談に行くと「お母さんは、あいの歌が本当に好きなんよ。もう1回だけやってみたら?」と説得されて、「そっか・・・。もう1回だけやってみよう」と気持ちを切り替えて、家に帰ったこともあります。

物静かで優しかった育ての父が10歳で他界

あいさんの七五三を祝う、育ての父。

育ての父は、あいさんが10歳のときに亡くなっています。そこから生活がじょじょに変わっていきました。

――育ての父が亡くなったときのことを教えてください。

川嶋 父が病気で亡くなったのは、私が10歳のときです。父の病状などはあまり覚えていないのですが父が亡くなった病室で、母に「これから2人きりだけど頑張っていこうね」と言われたことは、今でもはっきり覚えています。

父が亡くなった後、母は父の会社を継いだのですがうまくいかなかったようで、しまいには家を売り、私と母は小さなアパートで暮らすようになりました。
13歳のとき、私は演歌歌手でデビューすることになったのですが、デビューに向けて福岡と東京間を頻繁に行き来しなくてはいけなくなりました。交通費やレッスン代などを母が工面してくれましたが、子ども心に経済的に苦しいことはわかっていました。私のためにお金を借りていることも知っていたので「もう、いいよ。やめよう」と私が言うと、母は「あいは口出しせんとって!」と言って聞かないんです。

母は私が16歳のときに病気で亡くなってしまったのですが、母にとって私は生きがいで、人生のすべてでした。育ての母や父と過ごした日々を思い返すと、血のつながりなんて関係ない! 一緒に過ごす時間が親子の絆を深めていくと思います。母が亡くなって20年以上になりますが、育ての親への愛と感謝は今でも変わりません。

お話/川嶋あいさん 協力・写真提供/つばさレコーズ 取材・文/麻生珠恵 たまひよONLINE編集部

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川嶋あいさんが、特別養子縁組のことを公表したのは19歳のときです。公表した理由を川嶋さんは「私自身の経験を伝えることで、特別養子縁組について悩んでいる方が一歩前に進む勇気を持ってくれたら」と言います。

川嶋あい(かわしま あい)

PROFILE
2003年にI WiSHのaiとして人気番組の主題歌「明日への扉」でデビュー。2006年から本格的にソロ活動をスタートする。代表曲は「My Love」「compass」「大丈夫だよ」「とびら」など。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年4月の情報であり、現在と異なる場合があります。

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