『悪は存在しない』濱口竜介監督 小規模な制作環境がもたらすもの【Director’s Interview Vol.401】

何かすごいものを見てしまった…。『悪は存在しない』鑑賞後は、そんな思いが出てくるのがやっとであった。日本映画らしからぬ空気を纏った本作だが、描かれるのはまさに今の日本。まるでロシア映画のような情景から始まり、『偶然と想像』(21)で描かれたようなユーモアも交えながら、観るものを独特の世界へと誘っていく。

きっかけは、石橋英子から濱口監督への映像制作のオファー。『ドライブ・マイ・カー』(21)で意気投合したふたりは試行錯誤のやりとりをかさね、濱口監督は「従来の制作手法でまずはひとつの映画を完成させ、そこから依頼されたライブパフォーマンス用映像を生み出す」ことを決断。そうして石橋のライブ用サイレント映像『GIFT』と共に誕生したのが、本作『悪は存在しない』である。第80回ヴェネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞、濱口監督に世界3大映画祭制覇の快挙をもたらした。

『悪は存在しない』はいかにして生み出されたのか。濱口監督に話を伺った。

『悪は存在しない』あらすじ

長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねない杜撰な計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

まるで二卵性の双子『悪は存在しない』と『GIFT』


Q:元々は石橋英子さんのライブ用映像を作るところから始まったとのことですが、物語の部分は映像が浮かんでから後付けされたのでしょうか? それとも物語が浮かんだ後で映像を作られたのでしょうか。

濱口:交互という感じですね。石橋英子さんからライブパフォーマンス用映像を作って欲しいという依頼がありまして、『ドライブ・マイ・カー』での石橋さんとの共同作業が楽しかったこともあり、「やりましょう」と。ただ、どんな映像が石橋さんの音楽に合うかは分かりませんでした。

山梨にある石橋さんのよく使う音楽スタジオは、劇中に出てきたような自然に囲まれているのですが、こういうところから始めたら何か分かるかもしれないなと。そこでリサーチを始めました。その時点から撮影監督の北川喜雄さんにも来ていただき、撮影出来そうな場所を探したり、現地の方に話を伺ったりしてシナハンを進めました。そんなことをやっていくうちに、段々と物語が出来上がっていきました。ちなみに、シナハンのドライバーは当時スタッフだった大美賀均さんでした。

『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive

Q:この映画はいろんな解釈が出来るテーマを内包していますが、そこについて石橋さんに相談された部分はありますか。

濱口:いや、一切無いですね。もちろん結構長くメールなどで、自分の興味がある話題については共有してはいたんですが、「こういうテーマで」とも「こういう映像で」とも言われておらず、最終的には「濱口さんが普段やっているように作ってくれたら面白くなると思います」と言っていただきました。だとすれば、自分の場合は何か物語としての脚本がないと演出が出来ないので、それで脚本を書いたという流れです。

Q:ライブ用映像として出来た『GIFT』と本作とではどんな違いがありますか?

濱口:大まかな物語は一緒ですが、構成が違う部分があります。ところどころ違っていて、なかには同じような場面でも違うテイクを使っていたりとか、ニュアンスが違っていたりもします。まるで二卵性の双子のような、同時に生まれたのにそこまで似ていないけれども、少しは似ているし、何か通じ合いみたいなものもある。といった感じですね。ライブパフォーマンス映像の方には音が無いので字幕を入れています。最低限字幕がないと、逆に物語がどうなっているのか気になってしまうかなと。

Q:石橋英子さんのライブも非常に気になります。

濱口:素晴らしいので是非ご覧いただきたいですね。観客席を背にスクリーンの方を向いて演奏されるのですが、用意した楽曲はありつつも即興でプレイされています。たぶん映像側から何か刺激をもらい、それを受けて演奏しているのだと思います。その相互作用が感じられるのが、自分にとっては嬉しいことです。

スタッフの中に見つけた主人公


Q:リサーチを元に物語を作られたとのことですが、『悪は存在しない』のタイトルに示されるようなテーマは、以前から映画化したいものだったのでしょうか。

濱口:今思えば「こういう話を前にも考えたことがあったな」ということが、ほんの少しあるぐらいです。そっちは物語の舞台も全然違うので、ちょっとした“種”のようなものがあった感じです。

Q:『悪は存在しない』というタイトルはどのタイミングで付けられたのでしょうか。

濱口:リサーチのタイミングですね。リサーチをしていて何となく大枠みたいなものが見えたときに、このプロジェクトのタイトルとして付けました。その時はまだ物語は出来ていませんでしたが、その後完成した物語とも良い緊張関係を結んでいると思い、最終的にそのまま残しました。

Q:グランピングの話はリサーチで聞かれたのでしょうか。

濱口:劇中で描かれる説明会に近いようなことがあったと伺いました。杜撰な計画を持ってきて、住人から反対されたと聞いたときに、まぁいかにも都会の人間がやりそうなことではあるなと。これは他人事ではなく、意外と普遍的なことに触れているのではないか。それが核になっていった感じです。

Q:一方で都会側の方でも何かリサーチされたのでしょうか。

濱口:基本的には私の想像です。普段の仕事で芸能事務所の方とは会っていますが、劇中に出てくるような人はいません。むしろここはちゃんと言っておきたいです(笑)。ただ、試写後に芸能事務所のマネジャーの方から(劇中のキャラクターと同様に)「私も昔介護の仕事をしていたんです」と言われまして、意外と当たらずと雖も遠からずだったなと。

『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive

Q:巧を演じている大美賀さんはシナハンのドライバーだったそうですが、スタンドインで立ってもらったら巧本人に見えてきたそうですね。

濱口:その時はまだ物語はそんなにできていませんでしたが、「あれ、この人もしかしてすごくいいのかも……」という印象はありました。大美賀さんには『偶然と想像』で制作部をやってもらい、その後の小さな撮影なども手伝ってもらったことがありました。長い時間をかけて付き合ってくれる方なので、今回も撮影監督とのシナハンの段階からドライバーとして来てもらいました。カメラを通してスタンドインで入ってもらった彼を見たら、普段付き合っている人とはちょっと違うものに見えてきた。彼自身は監督でもあり、昨年末に『義父養父』(23)という映画が公開されたのですが、その映画がすごく良かった。そういったこともあり、普段はあまり見せないけど、彼にはある種の強い表現欲求や繊細な感性みたいなものがあるとわかった。そして、すごく“趣深い外見”だなと思ったんです。何を考えているのかよく分からないし、実際「何を考えているんだろうな」と思わせてしまうような顔をしている。「この人でいけるのではないか」と思い、オファーをしました。

Q:大美賀さんは作り手として表現者ではありますが、俳優志望ではないですよね。

濱口:そうですね。ただ、自分で映画を撮るようになってから、俳優をどう演出したらよいのかという悩みに直面したらしく、演じる側になってみるというのはすごく良いのではないかと本人は思ったようです。それで役を引き受けてくれたところもあります。

Q:巧の真っ黒なコートが印象的ですが、何か意図されたものはありますか。

濱口:これは大美賀さんの私物なんです。スタンドインをしているときからずっと着ていて、その得体の知れない感じに、このコートと帽子がすごく作用していた。何だかちょっと死神ぽいというか(笑)。すごく良いなと思いました。

コロナ以後の“ものの感じ方”


Q:グランピングの説明会のシーンでは、空気感がだんだん出来ていく感じが良かったです。いい感じで終わるのか、決裂するのかドキドキ感がありました。どのように撮影されたのでしょうか。

濱口:シーン全体を一通りやってもらって、それを何度か通すことを2カメで2日間撮影しました。あそこはすごく大事な場面でしたが、ある意味では準備しやすい場面。ちゃんとセリフを覚えてやれば良いシーンだったので、ここはしっかり撮ろうと思っていました。撮影を始めて3〜4日目くらいのタイミングでしたが、それまではライブパフォーマンス用の映像のことしか考えていなかったのが、このシーンの撮影から普通に映画として見られるものになるかもしれないな、と考え始めました。

Q:今回も『偶然と想像』のようなユーモアの感じがありました。事務所の絵画と同じポーズをとるシーンでは試写室で笑いが起きていました。

濱口:あれは撮影した実際の芸能事務所の壁に置かれていた絵画なんです。どうしようかなあと思ったときに、あの演出だったらいけるんじゃないかと。まぁ、その場その場でやってみるというのはありますね。コンサルタントが出てくるシーンなどは私も笑ってしまうのですが、ああなったのは、やっぱり役者さんの力だという気がします。一歩間違えると単に不快な場面になった可能性もありますが、コンサルタントと事務所の社長とのやりとりが、「彼らは彼らで本気で言っている」と思わせてくれたのは、やはり演技の力が大きいと思います。

『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive

Q:コンサルが車内のスマホからオンライン会議にアクセスしている感じなど、片手間加減にとてもリアリティがありました。

濱口:その辺は、コロナ以後の自分の“ものの感じ方”が反映されていると思いますね。

Q:やはりコロナは大きな出来事だったと。

濱口:そうですね。かなり大きいと思います。「こんなに家に籠ることがあるんだ」と皆さん感じたと思いますし、それでも世の中が回っていくことも驚きだった。あれを体験すると価値観は変わりますよね。

小規模な制作環境がもたらすもの


Q:監督のお話を伺っていると“いろんな偶然が重なって出来た”ようにも聞こえますが、偶然出来たとはとても思えないほど、すごい映画になっていると思います。

濱口:もちろん全てが“偶然ポロッと出来ました”ということではありません。自分自身が持っている問題意識のようなものと響く要素がうまく集まって出来たとは思いますが、一方で観客の皆さんには純粋に楽しんで欲しいという思いもあります。石橋さんの音楽から始まって、思った以上に物語が展開していきますが、そういうある種の“うねり”を楽しんでくれると有難いですね。

Q:『偶然と想像』しかり、『ハッピーアワー』(15)しかり、小規模な制作環境でも制約を受けず自由にのびのびと作っている印象があります。自身の作家性を存分に発揮できる環境が続くと、大規模な現場には戻りづらかったりするものでしょうか。

濱口:そういうところが、あると言えばあるかもしれません。今回のプロデューサーは『ハッピーアワー』や『偶然と想像』と同じ高田聡さんで、いつもやりたいようにやらせていただいています。これだけ良い環境があると安住したくなるところはありますが、ただ、大きな規模の映画を撮りたくないと思ったことはありません。大きな規模でも、撮れるものなら撮りたいということはずっと思っていますし、良い企画で自分がやれそうなものがあれば是非やりたいです。でもこういう少人数の制作が、自分自身の精神的な健康を保ってくれている気もするので、これをベースにやっていければと思います。

『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive

Q:小規模な制作環境と言いつつも、今回は画の力も強く規模を感じさせない部分もありました。機材なども良いものを使われたのでしょうか。

濱口:そう言っていただけるとありがたいです。撮影監督の北川喜雄さんはキューブフィルムという会社に所属していて、かなりの機材はそこからお借りしています。良い機材を使わせていただきました。

Q:作品自体が規模の大小を感じさせないようなところもあり、この環境で作り続けることが監督にとってベストなのではないかと思いました。

濱口:そうですね。この環境に可能性を感じていますし、これからも続けていくのは間違いないのですが、ただまぁ、映画って運が良くて出来ている部分も結構あるんです。今回も、単純にたまたま天気が良かったとか、たまたま撮影できる良い物件が見つかったとか、たまたま良い感じの小道具が見つかったとか、そういった部分が結構ある。いつも運が良いというわけではないし、運に頼らない部分をカバーしていくことが、もしかしたら一人一人のスタッフの仕事ということになっていくのかもしれません。一人一人の仕事が多くなれば多くなるほど、画面というものが分厚くなって観客が何かを発見できるものになる。そういう点で、スタッフの多さなどの規模に応じて、作品が強度を持つ面は間違いなくある、と思います。もちろん、そこに自分が上手く適応できるかという問題もありますが、そういう映画作りも自分の将来から排除しているわけではないです。

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監督/脚本:濱口竜介

2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』が国内外の映画祭で高い評価を得る。その後も317分の長編映画『ハッピーアワー』(15)が多くの国際映画祭で主要賞を受賞、『偶然と想像』(21)でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グラランプリ)、『ドライブ・マイ・カー』(21)で第74回カンヌ国際映画祭脚本賞など4冠、第94回アカデミー賞国際長編映画賞を受賞。地域やジャンルをまたいだ精力的な活動を続けている。

取材・文:香田史生

CINEMOREの編集部員兼ライター。映画のめざめは『グーニーズ』と『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』。最近のお気に入りは、黒澤明や小津安二郎など4Kデジタルリマスターのクラシック作品。

撮影:青木一成

『悪は存在しない』

4月26日(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国順次公開

配給:Incline

©2023 NEOPA / Fictive

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