「籠脱け」被害で私は一計を案じた…「お宅の玄関までお供いたします!」【タクシードライバー哀愁の日々】

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【タクシードライバー哀愁の日々】#17

タクシーは、江戸時代でいえば駕籠のようなものだ。そのせいか、タクシー業界には、江戸時代の名残である「駕籠屋」にまつわる言葉も残っている。前にこのコラムで紹介したが、街道で不当な商売をする「雲助」はその代表格かもしれない。この「雲助」はもちろん蔑称だから、タクシードライバーとしては聞いていて気分のいい言葉ではない。

「駕籠脱け」という言葉も江戸時代に生まれた言葉らしい。目的地に着くと「金を取ってくる」と駕籠屋を玄関に待たせて家に入る。さも、その家の住人のような顔をして家に入り、裏口から逃げることをそういう。もともとは、底に仕掛けのある駕籠から抜け出す軽業師の芸をそう呼んだことが由来とか。

私自身、この「駕籠脱け」の被害に遭ったことがある。「あっ、いけねぇ。財布を忘れちゃった。家から取ってくるから、運転手さん、ちょっと待っててね」と涼しい顔でマンションに入っていく。だが、待てど暮らせどお客は戻らない。こうなると泣き寝入りするしかない。いまは、車内カメラが装備されていて、警察に届け出れば捕まる可能性が高いから、「駕籠脱け」は減ったが、私がこの仕事をはじめたころは、同じ会社の同僚もときどき同じ被害に遭っていた。

実際、「お金を取ってくる」と言って、きちんと戻ってきて料金を支払ってくれたり、事前に連絡を入れておき「いま、女房に金を持ってこさせるから」と料金を払ってくれたりするお客がほとんどだった。

だが、高額の「駕籠脱け」の被害に遭ったことがある。深夜、横浜までのお客(料金を払わなかったから、正しくは“客”ではなかったが)だった。「運転手さん、ここで止めて。いまお金を取ってくるから」の言葉を信じて、マンションの入り口付近で待ったのだが、30分待っても戻ってくることはなかった。

50代の男。途中、会話も弾んでいたし、カジュアルな服装ではあったが、素性も確かなように思えたから、その男の言葉を信じた。だが、甘かった。高速料金を含めて約1万2000円分がタダ働きになってしまった。いわゆるインターロック式ではなく、誰もが中に入れる構造のマンションだったから、おそらく裏口から逃げたのだろう。

「いい人そうに見えたんですが……」

朝方、仕事を終え会社に戻ったとき、同僚に顛末を告げた。すると、「詐欺をするヤツは外面がいいんだよね。災難だったね」と慰められた。私は「信じる者は騙される」という言葉を噛みしめるほかなかった。

この「駕籠脱け」を機に一計を案じた。不審そうであろうが、善良そうであろうが、「お金を取ってくる」というお客にはこう言うことに決めた。

「お客さま、お宅の玄関までお供して料金を取りに伺います。お客さまに戻ってくるお手間を取らせるわけにはまいりませんし……。会社の決まりなんです」

「会社の決まり」は真っ赤なウソである。クルマのエンジンを止め、領収書と釣り銭ケースを持って家の玄関までついていくことにしたのだ。会ったばかりの他人。途中、エレベーターの中では、気まずい空気も流れたが、自己防衛のための苦肉の策だ。幸いなことに、料金を踏み倒すために暴力をはたらいたり、逃げたりするお客はいなかった。

駕籠屋であれば、担ぎ手は2人だから、1人は駕籠を守り、もう1人が料金回収のためにお客についていけばいいのだろうが、タクシーはそうはいかない。エンジンを切り、釣り銭を持参し、クルマをロックするという手間がかかるが、「駕籠脱け」されるよりはマシというわけだ。無粋と思われそうだが、こちらは生活がかかっているのだ。

(内田正治/タクシードライバー)

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