小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=130

 数年過ぎて、田守は事務所勤めとなった。中学校を卒えていた彼はパトロン以上に事務仕事ができて、客扱いもすっかり板についていた。有能な事務員として俸給面でも厚遇されるようになったが、彼は自分の生活費以外は仲間との遊興費に使い果たしていた。欲がないというより自棄っぱちな所作があった。飲めない酒を無理に呷ったりしていた。
 もう十年近くも勤務した田守でもあり、ある責任を感じていた篠崎は、いつものバーでコーヒーを飲みながら、
「なあ、田守、君がよく働いてくれるので、わしの業務も軌道に乗り、ずっと順調で有難い。この辺で君も身を固めたらと考えるのだが」 
 と言った。最近は同僚からも、そうした声を掛けられる。篠崎にだけは、無碍に断りがたいものを感じていた。結局、篠崎の奨めでマチルデというブラジル人の娘と結婚した。彼女は大勢の職人を使って美容院を経営していた。四人兄弟の姉で、兄は家族の反対する女と駆け落ちし、マチルデは母親と妹の養育に励み、婚期を遅らせてしまった。妹たちがいなかったら自分は疾うに結婚していて、田守と出遭うこともなかった、という口の利き方をした。
 田守が特別の愛情をもって結婚したわけでないように、女も彼に献身的でなかった。そのことは、最初のころ気にもならなかった。女はきわめて気性が激しく、我がままであった。やり手ではあるものの、男性を自分と同等ならともかく、それ以下に扱おうとした。田守は、結婚したからには、一応、人並みの生活を考えていた。
 マチルデは結婚後も、いい顧客筋があるから美容院は続けることにし、田守の家から自分の美容院に通った。が、一年もすると女が通うのは疲れるから、田守に美容院へ移るように勧めた。家財道具は一切揃っているし、家の雑費は自分が負担すると申しでた。
 田守は結婚のために家を新築したばかりだし、女の家では養ってもらっているようで気が進まなかったが、彼女がしきりに奨めるので賛成した。新調した家財道具は女の家には収めきれないので、惜しいが友人に実費で譲ることにした。
 ところが、値を決めて届ける段階になって、マチルデは、このインフレに実費で売るなんて商売下手だ。自分に任せてほしい。儲けは二人で貯金しよう、と言い出した。田守は、約束した先方に失礼だと諭した。が、彼女は自ら出かけて、強引に約束を取り消してくる始末である。売った金は彼女自身の預金とする。約束した家の雑費は、今手元にないから立て替えて欲しいとなる。どうせ夫婦なのだから、小さいことに眼くじら立てることもない、と田守は鷹揚に構えていた。

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