「女の幸せは良縁に恵まれること」朝ドラ『虎に翼』寅子のモデル、三淵嘉子の母・ノブ…〈確固たる信念〉のウラにあった壮絶な少女時代

(※写真はイメージです/PIXTA)

4月から放送をスタートしたNHK連続テレビ小説『虎に翼』。主人公・猪爪寅子(いのつめ・ともこ)役の伊藤沙莉さんの好演も話題になっています。寅子のモデルとなった三淵嘉子(みぶち・よしこ)(1914~84年)は日本初の女性弁護士で、後に裁判官を務めました。本記事では、青山誠氏による著書『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(KADOKAWA)から一部抜粋し、まずは嘉子に大きな影響を与えた母親「ノブ」の半生について、ご紹介します。

父母の出会い

半円形の窓に施された漆喰(しっくい)装飾やパステルカラーの家々がならぶ街並みに、南国の強い日差しが降り注ぐ。通りに軒をつらねる建物の大きく張り出した屋根は、アーチ状の柱で支えられ、それが日差しを避ける格好の通路として機能していた。

軒下にできた日陰の小径(こみち)を、つばのないイスラム帽を被(かぶ)ったマレー系の男性、鮮やかな色のサリーを身にまとったインド人女性、でっぷりと肥えた商店主風の中国人など、さまざまな人種が行き交う。

三淵嘉子(みぶちよしこ)が生まれてはじめて目にしたのは、おそらく、こんな感じの眺めだろうか。彼女は大正3年(1914) 11月13日にイギリス領シンガポールで生まれている。名前に使われている「嘉」の一字も、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」に由来する。

熱帯の街での暮らしは、まだ赤ん坊だった嘉子の記憶に残っていないだろう。が、彼女の父母の意識には、この異文化体験が少なからぬ影響をもたらしたようだ。それは帰国後の子どもたちの教育にも影響する。

嘉子の父・武藤貞雄(むとうさだお)は東京帝国大学法科卒業のエリート。彼が勤務する台湾銀行は大正元年(1912)にシンガポール出張所を開設し、そこへ転勤を命じられて新妻のノブを伴い赴任していた。

貞雄は四国・丸亀(まるがめ)の出身で、地元の名家・武藤家に入婿して一人娘のノブと結婚した。ノブもまた当主・武藤直言の実子ではない。彼女の実父は若くして亡くなり、6人の子沢山だった一家は生活に窮してしまう。そのため末っ子だった彼女は、伯父の直言に養女として引き取られた。

直言には子どもがいない。自分と血の繫つながるノブに婿を取らせて家を存続させる。最初からそれが養子縁組の目的だったのだろう。

武藤家は金融業などを営む資産家で、大きな屋敷をかまえていた。しかし、かなりの倹約家でもある。家のことを取り仕切る義母・駒子も質素倹約の家風をかたくなに守り、まだ幼かったノブにも容赦なくそれを叩き込んだ。便所紙を使いすぎるとか、些細(ささい)なことですぐに説教される。また、掃除や洗濯などの家事にもこき使われた。倹約家なだけに、広い家に見合うだけの女中を雇っていなかったのだろうか。

義母はかなり細かく几帳面な性格でもあり、一切の妥協を許さない。仕事に手抜かりがあればまた𠮟責される。ノブとは血縁のない赤の他人。血の通った母娘であれば、その受け取り方もまた違っただろうが。

義母の小言は、女中奉公にだされた先で女主人から𠮟られているよう。そこに愛を感じることはなかったようである。幼な子が親元を離れて暮らすのは辛い。それにくわえてこの仕打ち。恨んだこともあっただろう。

男女の待遇格差が深刻だった明治時代末期

ノブは晩年になってから、子や孫たちによく自分の昔話をするようになる。そこに義母の話がでてくると必ず「性格のキツイ人」「厳しい人」といった表現が使われる。

母と娘というよりは、嫁と姑のような感じでもあり、長い年月が過ぎていたのだが、わだかまりは残っていたようだ。

それでも女学校には通わせてもらった。女学校卒の経歴は、それなりの階層においては結婚に有利な条件のひとつになる。義父母にはそんな思惑があったのだろう。もっとも、この時代はどこの家でも娘を女学校に通わせる目的はそれだった。

花の女学生、人生でいちばん楽しい時のはずなのだが……、あいかわらず義母は家事をあれこれと言いつけてくる。色々とやることが多過ぎて、友達と遊ぶ暇などはない。サボればまた義母から厳しく𠮟られる。常にその目を意識して、文句を言われぬよう細心の注意を払う。家の中では常に緊張を強いられてリラックスすることができなかった。

結婚するまで包丁も握ったことがない女性も多い現代とは違う。この時代はどこの家庭でも、母親は娘に家事を手伝わせて家事のスキルを身に付けさせようとする。また、家計を任される妻の責任を自覚させるために、質素倹約の精神を教え込む。

女の幸せは良縁に恵まれること。そして当時の男たちが求める理想の妻は、家事を万事そつなくこなして夫を献身的に支え、子どもの教育もしっかりとできる。いわゆる“良妻賢母“。それが女性のめざすべき姿だと信じられていた。

義母もまた、ノブを良妻賢母に育てることが自分の使命と思っていたのだろう。彼女の場合は少しやり過ぎの感はあるのだが。

明治時代末期、労働現場での男女の待遇格差は現代人の想像を絶するほどに激しかった。官僚や一流企業に勤めるには大卒の学歴は必須 、しかし、東北大学等一部の例外を除きほとんどの大学が女子に門戸を閉ざしていた。

女性が安定した月給を得られる職といえば教師ぐらいしかないのだが、そこでも給与や待遇では不利を強いられる。

庶民階級の日雇い仕事では、男女の待遇格差がさらに大きくなる。『日本帝国統計年鑑』によれば、明治時代末期の工場労働者(紡績)の平均日給は男性が44銭で女性は28銭。その差は1.6倍にもなり、女性が月に25日働いて得られる収入は7円にしかならない。

明治36年(1903)にまとめられた労働事情の調査書『職工事情』によれば、世帯の平均支出は1ヵ月で11円88銭と記されている。男性労働者の賃金でも生活するのはぎりぎり、女工の収入で一家の家計を賄うのは不可能に近い。

苦難の末に出会った「最良の夫」

女性が独力で生きるには、食住が提供される女中奉公か工場の寮に入るしかない。それも年齢が高くなると色々と難しくなってくる。つまり、男性の庇護(ひご)がなくては、まともな暮らしができないということ。だから女性たちは婚期を逃すことを恐れた。

年頃の娘をかかえた両親や親族もまた、血眼になって良縁を探し求める。家計に余裕があれば娘を女学校に通わせる。それが結婚に有利だから。女学校の教育目標は良妻賢母を育てることにあり、授業も料理や裁縫などがやたらと多い。

高等教育機関である専門学校や大学への進学は、卒業後の進路として想定していない。在学中に縁談がまとまり、中途退学する娘も多かったという。

女学校を卒業すれば婿を取らせる。それはノブを養女に迎えた時から決めていたことだ。貞雄との結婚も養父母が決めたもので、彼女に拒否権はない。が、結果的にはそれが正解だった。

夫となった貞雄はエリートであることを鼻にかけることがなく、物腰の柔らかい好人物だった。高等学校からずっと東京での都会暮らしをしていたこともあり、服装はもちろん考え方も洗練されている。男尊女卑をあたり前のように考える田舎の男たちとは違う。何をするにもノブとよく話し合い、彼女の意見を無視するようなことはしなかった。

最良の夫と巡りあえたのは運だけではない。幼い頃から女中のようにこき使われ、女学生になってからも友達と遊ぶ暇も与えられず家事をこなしてきた。これも花嫁修業と思えば、他の娘たちに負けない厳しい修業に明け暮れてきたということになる。

それは誰にも負けないという自負があった。

貞雄という最良の夫と結婚することができたのは、長年の努力が身を結んだ結果。この成功体験は、やがて生まれてくる自分の娘にも伝えてゆきたいと思うようになる。良妻賢母のスキルを磨いて良縁を得れば、幸福な未来が待っている、と。

青山 誠

作家

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