『太宗 イ・バンウォン』では悪役になった神徳王后の本当の正体とは

テレビ東京で放送されている『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』は、4月23日の第13話で初代王妃の神徳(シンドク)王后・康氏(カンシ)が世を去った。李成桂(イ・ソンゲ)や息子の芳碩(バンソク)が悲嘆する様子が描かれていた。

とにかく、神徳王后は毀誉褒貶(きよほうへん)が多い女性だった。特に、『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』では完全な悪役で、主人公の李芳遠(イ・バンウォン)を常に抹殺することばかり考えていた。そのためには手段を選ばない強欲な人でもあった。

しかし、本当はどんな女性だったのだろうか。

神徳王后は高麗王朝の大変有力な家門の出身である。李成桂は自分の出世のために彼女の一族を利用したところがあり、彼が大将軍になれたのも康氏一族の支援があったからだ。そういう意味で李成桂は神徳王后に対して感謝を惜しまなかった。また、神徳王后は大変な美貌を誇る女性であり、李成桂は精神的にも彼女のことを寵愛していた。

そんな神徳王后は世子選びに関しては、自分が産んだ芳碩を強引に推していた。ただし、朝鮮王朝が建国された1392年当時、芳碩はまだ10歳であった。

(写真提供=Monster Union)

弱くなった芳碩の立場

彼の異母兄たちは成人していて朝鮮王朝の建国に大きな貢献を果たした。それゆえ、順番からいけば異母兄の誰かが世子に就くのが理にかなっていた。特に、李成桂の五男であった李芳遠は実力があって世子としても申し分のない資格を持っていた。

しかし、多くの候補を無視して神徳王后は世子に芳碩を選ぶことに成功した。もし彼女が長生きしていれば、腹心として頼りになる鄭道伝(チョン・ドジョン)の協力も得ながら、芳碩を立派な世子として成長させて2代王を継がせることが可能であっただろう。

しかし、神徳王后は建国から4年目の1396年に病死した。これによって芳碩の立場が急に弱くなってしまった。

人間の寿命だけはどうしようもない。神徳王后としても、40歳で死ななければならないことが一番悔しいことであったことだろう。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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