JR脱線で兄失った男性、能登で救命の最前線へ 災害医療に志願 発生19年「今も見守ってくれている」

「18年しか生きられなかったんだな」。兄昌毅さんへの思いを語る上田篤史さん=神戸市東灘区住吉本町(撮影・長嶺麻子)

 優しかった兄が生きた時間を、事故後の月日が追い越した。尼崎JR脱線事故で3歳上の兄昌毅さん=当時(18)=を亡くした神戸市東灘区の上田篤史さん(34)は事故後、看護師になって救命現場に立ち、伴侶を得て2人の子の父になった。「思い返すとあっという間。兄が生きられた時間は短かった」と悲しみを新たにする。一方で、命を救う仕事への情熱は深まり、2月には能登半島地震の被災地で支援活動に携わった。「兄は今も見守ってくれている」。ぬくもりを確かめ、前を向く。(岩崎昂志)

 事故前夜の最後の会話を、篤史さんは鮮明に覚えている。高校入学直後、山積みの宿題で必死だった篤史さんに、昌毅さんは「無理すんなよ」と声をかけてくれた。マイペースな兄らしかった。

 翌朝、昌毅さんは通学で乗った快速電車2両目で事故に遭った。多数の死傷者が出た極限の現場で「救命不可能」と判断された。治療を施されることなく、18歳で命を絶たれた。

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 「助からなかった兄の分も人の命を救いたい」。篤史さんは2012年、神戸市立医療センター中央市民病院で看護師になった。救命部門を志願し、事故や病気で搬送される多くの救急患者に向き合った。

 日々全力を尽くし、それでも救えない人もいる。泣き崩れる家族の姿に自身や昌毅さんが重なった。

 大規模事故や災害などの最前線で救命にも携わろうと、災害支援ナースや災害派遣医療チーム(DMAT)に加わった。「兄は病院ではなく現場で亡くなった。危機にひんした人のいる所に行って助けたい」との思いに突き動かされた。

 今年の元日、篤史さんは夜勤だった。夕方に能登半島地震が発生、救急室に入って間もなく揺れを感じた。刻々と厳しい被災状況が明らかになった。

 DMAT隊員として派遣の待機状態に入り、同僚が次々と被災地に向かった。篤史さんも災害支援ナースとして避難所支援の派遣が決まり、2月2日に金沢市のいしかわ総合スポーツセンターへ向かった。

 建物などの被害が甚大だった地域とは離れており、設備や物資は比較的整っていたが、多くの人が体育館内に張られたテントに身を寄せていた。避難者の体調を見極め、感染症のまん延を防ぐのが任務。避難者に声をかけて健康状態や持病を確認し、痛みやせきなどの異変を見逃さないよう神経を集中させた。

 4日間の活動で、普段の救命現場と違う役割を果たせた実感はある。一方で、今も自宅に帰れない被災者の姿に「(自分は)役に立てたんかな」とも思う。「また支援に行きたい」と篤史さんは言う。

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 4月25日が巡る。

 篤史さんは毎年この日、心の中で昌毅さんに近況を報告する。今年は自宅で過ごす予定で、おしゃべりが上手になった長女陽菜ちゃん(4)や、昨年生まれた長男世梛ちゃん(1)のことも伝えたいという。

 短い昌毅さんの人生を思うと「むなしい」と感じてしまう19年間。しかし、それは兄の存在を忘れずに、大切な人と生きた時間でもある。「家族のことや被災地支援を経験した仕事のこと。きっと見てくれている兄に伝えたいんです」

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