西郷隆盛のひ孫も「あらららら。えーっ」 遺族が泣き崩れたとの話も… 『西南戦争の遺跡』なぜ復旧進まない? 熊本

「西南戦争(せいなんせんそう)遺跡は熊本地震から8年経っても壊れたままなのはなぜ」という疑問について、その理由を深掘りしました。

熊本市北区植木町(うえきまち)にある七本(ななもと)官軍墓地。

西南戦争で戦死した政府軍の兵士を中心に、約300基の墓が並びます。

地元の顕彰会の会長に案内してもらいました。そこには、崩れた墓や結束バンドで仮止めされた墓が。

これらは、8年前の熊本地震で被害に遭ったということです。

西南戦争田原坂顕彰会 藤井修一会長(71)
「3年くらい前だったそうですが、遺族が来て、(墓石が)倒れた状況を見て泣き崩れたとの話も聞いている」

なぜこんな状況になっているのか。

西南戦争は、1877年・明治10年に政府軍と薩摩軍が戦った国内最後の内戦です。

死者は両軍合わせて約1万4000人。

最大の激戦地・田原坂(たばるざか)周辺での死者は、このうち約4分の1に上るといわれています。

国は熊本市と玉東町にまたがるこの戦場の跡を2013年に史跡に指定。

地元の顕彰会は両軍の兵士を悼むため、毎年3月に追悼式を開いています。

七本官軍墓地は戦没者の慰霊のため国が造ったものですが、今は熊本市が管理しています。

そのため顕彰会は市に墓の修復を求めていますが…

藤井会長「担当課に何度もお願いしたということですが、今のところ前に進んでいない状態」

西郷隆盛のひ孫も「あらららら。えーっ」

一方、隣の玉東町(ぎょくとうまち)にある高月(たかつき)官軍墓地は、町が必要に応じて墓の建て替えなどを進めています。

玉東町職員 宮本千恵子さん
「(遺族から)「こんなに綺麗にしてくださってありがとうございます」と言われた時はうれしいです」

なぜ管理する自治体によって対応が違うのか。理由の一つは、「史跡西南戦争遺跡保存活用計画」です。

宮本さん「史跡として、どのように後世に守り伝えていくかという方針をうたったものです」

玉東町は、国による史跡指定から3年後、計画を文化庁に提出。10年ごとに見直す予定です。

文化庁は2018年の法改正で、管理する自治体などが「保存活用計画」を国に申請できる仕組みを整えました。

計画を作ることで、修繕などをする時に、国の補助金をスムーズに受けられるメリットもあるということです。

計画の作成は義務ではないものの、文化庁は…

文化庁「保存や活用が行き当たりばったりにならないように、きちんとした計画が必要」

こう述べて、作成を促しています。

しかし熊本市は、田原坂公園などが国の史跡であるにも関わらず、この計画を作っていません。また、同じ官軍墓地でも、玉東町が国の史跡なのに対し、熊本市は県の史跡のまま。

熊本市は国史跡への追加指定を目指しますが、県に対しても保存や管理に関する計画を提出していないのが現状です。

熊本市文化財課 赤星雄一・副課長
「熊本地震の発生などで、そちらに人的な部分を割けなかったことが要因の一つ」

こうしたことが、墓の修復に影響しています。

赤星副課長「修復などについては県の補助を取って行うが、予算的な部分も課題になっている」

この状況をどう思うのか。

追悼式の後、薩摩軍を率いた西郷隆盛(さいごう たかもり)の “ひ孫” である隆文(たかふみ)さんに、官軍墓地を見てもらいました。

西郷隆盛のひ孫 西郷隆文さん
「あらららら。えーっ」

記者「結束バンドで・・・」

西郷さん「留めてあるんですね」

西郷さんも驚きを隠せません。

西郷さん「きちんとしてあげてほしいですよ。『倒れたから』『壊れたから』ってそのままにしておくのはダメですよ」

地元や遺族からも同様の声があり、熊本市は重い腰を上げるようです。

赤星副課長「令和7年から8年(2025~26年)にかけて西南戦争遺跡の保存活用計画を策定する予定です」

3年後には、150年の節目を迎える西南戦争。

この戦いの記憶をどう将来に渡していくのか。その姿勢が問われています。

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