「私は、間違っていた」年齢の壁に直面した60代女性が“老後の学び直し”で得た「かけがえのないもの」

<前編のあらすじ>

道代(62歳)はずっと専業主婦だったが、夫を亡くしてからは1人暮らしをしていた。ある日、道代よりも上の世代の芸能人が大学入試に挑戦するというテレビ番組を見てくぎ付けとなる。かつて道代も大学進学を夢見ていた頃があったのだ。

一念発起してシニア入試にチャレンジし、無事に合格を果たした道代だったが、晴れて入学した大学には周囲の冷たい目が待っていたのだった……。

久しぶりの自己紹介

「ああ、そんなもんよ」

久美子はせんべいをバリバリと食べながら、相づちを打った。

つい先ほどまで道代は大学について愚痴を話していた。

あの入学式からもう1カ月がたち、授業が徐々に始まり、道代には分かってきたことがあった。

誰しもがみな、勉強をするために大学に来ているというわけではないということだ。遊ぶため、就職のため、資格を取るため、いろいろな理由で大学進学をしている人が多い。

むしろ道代のように学びのために進学をしているのは、少数派かもしれないと思っていた。

「私ね、民法のゼミに行ってるんだけど、そこでグループ課題があったから、私、プレゼンテーション資料を作ろうかって提案したの。そしたら、みんなそんなことやりたくないって言われちゃって」

「まあね、今どき、大学進学なんて当たり前になってるからね。みんながみんな、やる気があって通っているわけじゃないでしょ」

そこにいる人たちにとって大学はあくまで通過点でしかない。いや、就職して働き出す前の人生の余暇くらいに捉えているのかもしれない。

しかし道代にとっては紛れもなく到達点だった。

「私は、間違ってたのかもしれない」

「どういうこと?」

「あんたの言うとおり、私は、世間知らずだったんだろうね」

「ちょっと、根に持つのやめてよ。いつまで気にしてんの」

このまま、あと4年間、空気としてあの大学に通い続けるしかないのだろうか。

鬱屈(うっくつ)とした気持ちを、道代は拭うことができないまま大学に通った。

学費を夫が残してくれた貯金から出しているということもあり、休むのは気が引けた。何より新しい知識を得る喜びだけは、大学に確かに存在していた。

授業に出席し、講師の言葉や板書を丁寧にノートにまとめる。しかし授業が終われば、すぐさま荷物をまとめ、逃げるように教室を出る。

しかしその日は違った。

「あの」

顔を上げると、そこには女性の姿があった。

「……な、何でしょう?」

「さっきの善意と悪意のこと、知ってたんですか?」

民法の授業でたまたま道代は教授に当てられ、善意と悪意の違いについて答えていた。

一般常識と違い、法律における善意は知らないことで、悪意は知っていることとなる。

道代は質問に笑顔で応える。

「昔ね、夫からそういう話を聞いたことがあったの。それでね、興味深かったから覚えてたのよ」

「そうなんですか。あの、実は、私、後ろの席に座ってて……いつも、すごいびっしりノートに書いてますよね」

当然、道代は気付いてなかった。基本的に教室に入ると、参考書とにらめっこしかしていなかったからだ。

「あの、この後って何の授業を取ってます?」

「いえ、今日はもうこれで終わりだから」

「じゃあ、ちょっと食堂に行きませんか?」

「え、あ、もちろん」

ぎこちなく答えたが、心がわずかに跳ねる。

食堂に入ってみたい気持ちはあったが、一人で行く勇気がなかったのだ。

「あ、すいません、私、桜木彼方と言います」

「桜木さんね。私は塚原道代です」

大学生活を始めて 1カ月、久しぶりの自己紹介だった。

62歳と18歳の「友情」

食堂は昼過ぎだというのに大勢の学生が集まっていた。道代たちは席を探し、ちょうどあいていた窓際のテーブル席を確保する。

彼方もこの大学にまだなじみきっていないようだった。

「何か、みんなと話が合わないんですよ。彼氏がどうとか、あの教授に気に入られれば就職に有利とか。私、そういうことがしたくてこの大学に入ったわけじゃないんで」

「桜木さんはどうしてこの大学に入ったの?」

「最初はドラマですね。ドラマで法律を扱うやつがあったので、それで法律って面白そうって思って、好きになりました」

「それじゃあ桜木さんは将来、弁護士とか?」

「んー、それはまだ分かりません。勉強してみて、ゆっくり4年間で考えていこうかなって思ってます」

そこから道代はドラマについて聞いたり、講義内容についていろいろと情報交換をする。夢中になって話していて、時間の経過をつい忘れていると、彼方が携帯の画面を見る。

「あ、私、そろそろ、アルバイトに行かないと」

「あら、そうなの。それじゃ私もお暇(いとま)しようかしら」

これでお別れなのは寂しいが、引き留めるのも申し訳なかった。

すると彼方が携帯を差し出してきた。

「連絡先、交換しましょうよ」

「え、いいの?」

「はい、たまにこうして一緒にコーヒー飲んだりしましょう」

彼方の笑顔に道代は感激した。

こうして道代は大学生活初めての友達を作ることに成功した。

友達が1人いるだけであれだけ、息苦しかったキャンパスが快適なものに感じられるから不思議だ。彼方とは同じ講義のときは隣の席に座ったり、大学内のカフェでお茶を飲んだりして過ごした。

彼方は18歳という年齢に似合わず、大人びた考え方をしていて、見ていたものや過ごしてきた時代が違うにもかかわらず、まるで旧友かのような落ち着きを感じられる。

しかしそれでも全てが順風満帆かと言われれば、違う。

彼方と一緒に大学内を歩いているとき、彼方の友人が話しかけてきた。彼方はその友人に道代を紹介すると、友人は物珍しそうな目を道代に向けてきた。

「どうしてわざわざ、大学に来ようと思ったのですか?」

道代はその質問に壁と棘を感じた。同じように進学をしているにも関わらず、どうしてそんなことを聞いてくるんだ。しかし無視するわけにもいかず、取りあえず答える。

「ちょっと、法律に興味があって」

道代の答えに友人は興味なさそうに相づちを打って、去って行った。

その瞬間、道代は夢から覚めたような気分になる。自分は大学生ではなく、キャンパスに紛れ込んでいる異物なのだと自覚する。

年齢は関係ない

あるとき我慢できなくなって、道代は彼方に質問をした。

「私みたいなおばあちゃんと一緒にいても楽しくないでしょ?」

コーヒーを飲んでいた彼方は道代の問いにむせ返る。

「な、何ですか、急に?」

「だって、私みたいなおばあちゃんといると、あなたまで変な目で見られるでしょ?」

そこで道代は入学式から道代に出会うまでの大学での話を吐露した。それを聞き、彼方はうなずく。

「まあ、そういうのはあると思いますよ。やっぱり高齢者で大学に通うって変わってますから」

「そうよね……」

「だけど、そうじゃない人もいますから」

「え?」

「道代さんは若者と高齢者って分け方をしてますけど、若者の中にも色んな考え方の人がいますし、高齢者だって、若者を頭ごなしに否定してくる人もいますから。だからこそ年齢関係なく、相手を思いやれる人っていうのはいますよ」

「そ、そうかしら……?」

自信なさげに顔を上げると、彼方と目が合った。

「道代さんは私と一緒にいて、嫌ですか?」

「いいえ、そんなことはまったくないわ」

「じゃあ、周りの目なんて気にしないでいいですよ。どうせ、みんな私たちのことなんてすぐに忘れますから」

彼方は笑いながら、コーヒーに口をつけた。

確かに、そう思った。みんな、すぐに忘れてしまう。彼らにとってここは通過点で、そこから先も長い人生が待っているのだ。

そんな彼らがイチイチ、大学時代にまともに話をしたこともないような老婆なんて覚えているわけがないのだ。

「……余計なこと気にしなくていいのよね」

「そうですよ」

道代は彼方に笑いかける。

「でも私は彼方さんのことは忘れないからね」

「私もですよ」

道代ははにかんだ顔で笑う。

「ねえ、彼方ちゃんは大学内で友達できた?」

「ええ、何人か、ですけど」

「その人たちと、会って、お話をしてみたいわ」

道代がそう提案すると、彼方はうれしそうに笑ってうなずいた。

限られた時間を楽しめるかどうかは自分次第。

そう考えると、視界が一気に開いたような気分になった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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