亡き妻の名を冠した ドイツの【シャルロッテンブルク宮殿】 とびきりの才媛シャルロッテが夫に影響を与えたのは

おとぎ話に出てくるような、世界の美しいお城。みなさんが一度は訪れてみたいお城はどこでしょう。ラブロマンスが背景に伝わるお城を、洋の東西とわず歴史が大好きという鷹橋 忍さんにひも解いていただきましょう。今回は、ドイツのシャルロッテンブルク宮殿です。

★バッキンガム宮殿のラブロマンス★

ラブロマンスが背景にある世界のお城、今回はドイツの首都ベルリンの指折りの観光名所である、シャルロッテンブルク宮殿をご紹介しましょう。

この美しい宮殿には、どんなラブロマンスが残されているのでしょうか。

モデルはヴェルサイユ宮殿

シャルロッテンブルク宮殿は、プロイセン初代国王フリードリヒ1世(1657~1713/在位1701~1713)が、プロイセン国王になる前の1699年に、建設を始めた宮殿です。

愛する妻の夏の離宮として、ヴェルサイユ宮殿をモデルに造られました。

フリードリヒ1世も当時の多くのヨーロッパの王侯たちと同じように、「太陽王」と称されたフランス王ルイ14世(1638~1715/在位1643~1715)と、ルイ14世が建設したヴェルサイユ宮殿(前身はルイ13世の狩猟の館)に強い憧れを抱いていたのです。

シャルロッテンブルク宮殿は建設当初、「リーツェンブルク宮殿」と名付けられました(ここでの表記は「シャルロッテンブルク宮殿」で統一)。
なぜ、シャルロッテンブルク宮殿と名を代えたのかは、後述します。

とびきりの才媛 王妃ゾフィー・シャルロッテ

フリードリヒ1世の妻は、ゾフィー・シャルロッテ(1668~1705)といい、ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの息女です。
選帝侯とは、神聖ローマ帝国の皇帝を選挙する特権をもつドイツの大諸侯を意味します。

1684年、彼女が16歳のとき、11歳年上のフリードリヒ1世と結婚しました。

ゾフィー・シャルロッテは、大変に人気のある王妃です。文学、哲学、芸術と幅広い分野で豊かな知識と教養をもつ、陽気で聡明な女性でした。
英語、フランス語、イタリア語をよくし、特にフランス語は、本当にドイツ人なのか疑われるほど堪能だったといいます(飯塚信雄『フリードリヒ大王』)。

ゾフィー・シャルロッテは、シャルロッテンブルク宮殿にサロンを開いて学者や芸術家を集め、文化活動を行ないました。

また、ドイツの大哲学者にして、数学、自然科学、法学、神学などでも知られ、外交官や技術家としても活躍したゴットフリート・ライプニッツ(1646~1716)とも、親しく交流しています。

妻の影響でベルリンの学術振興に尽力?

高い知性と教養をもつ妻の影響もあり、フリードリヒ1世は「ベルリン芸術アカデミー」を創設するなど、ベルリンの学術振興に力を尽くしました。

また、フリードリヒ1世とゾフィー・シャルロッテの夫妻は、シャルロッテンブルク宮殿で上演される劇やオペラ、バレエなど一緒に楽しんだといいます。
夫婦仲はとてもよかったようです。

二人の間に誕生した息子が、「軍人王」と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(1688~1740/在位1713~1740)です。

このフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の息子が、プロイセン王国をヨーロッパ列強国へと導いた、「大王」と称されたフリードリヒ2世です。
フリードリヒ2世は、祖母にあたるゾフィー・シャルロッテの目映い青い目を受け継いだといいます(飯塚信雄『フリードリヒ大王』)。

宮殿に亡き妻の名を冠する

仲睦まじく暮らしていたフリードリヒ1世とゾフィー・シャルロッテですが、その幸せは長くは続きませんでした。

1705年、ゾフィー・シャルロッテが37歳という若さで、死去してしまったのです。

フリードリヒ1世は愛する妻の死を悼んで、リーツェンブルク宮殿の名を、妻の名を取り、「シャルロッテンブルク宮殿」と改めました。

ベルリンにただ一つ残された、プロイセン時代の宮殿

シャルロッテンブルク宮殿は、ゾフィー・シャルロッテの死後も、増改築が繰り返され、1790年に、現在に見られるような姿になったといいます。

ベルリンは第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが、シャルロッテンブルク宮殿は生き延びました。

現在、「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の一つとして、世界遺産に認定されています。
ベルリンに残されたプロイセン時代の宮殿は、シャルロッテンブルク宮殿ただ一つです。

亡き妻の名を冠したシャルロッテンブルク宮殿は、フリードリヒ1世の永遠の愛の証のように、美しい姿で現在も、ベルリンに佇んでいるのです。


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