八神純子『パープルタウン』大ヒットで紅白にも出場したが人気絶頂の中、アメリカへ移住した理由

八神純子 撮影:有坂政晴

『みずいろの雨』『パープルタウン』といったポップスで日本のニューミュージックシーンに登場した八神純子さん。聴く人を魅了するハイトーンボイスは今も健在だ。ブレイクから活動休止を経て、また再びステージへ。デビューから45年間にも渡る音楽人生の転機とは?【第2回/全4回】

八神さんの代表曲と言えば、『みずいろの雨』。高音の伸びが美しい楽曲だ。

「今は、音域が大事なのがわかるので歌う人を考えて作るのですが、あの頃は“自分が歌えるのなら、みんな歌える”って思っていました。でも自分で歌わずに曲を提供したら、作曲家になってしまうのかな……って気がかりでした。『みずいろの雨』は、レコーディングした時から“この曲はヒットするだろうな”っていう予感を抱いていました。でもそれまでの曲も、“売れるだろう”って思っていたのですけれどね(笑)」

八神さんのブレイクのきっかけともなったテレビ出演。しかし最初は苦痛に感じていたそうだ。今では世代を問わずに音楽に親しめる機会だったとも感じているという。

「高度成長期は、テレビが家庭に1台しかなかったから家族みんなで観ていた時代。それこそ、最初は録画もできなかったから、観たい番組までにやらなきゃならないことを終わらせていましたよね(笑)。そうやって、テレビを家族でわかちあうような時代だった。その中で音楽には、世代を超えたエンターテイメントという役割があった気がします」

人気絶頂の中、アメリカへ移住

60万枚の売上を記録し、大ヒットとなった『パープルタウン 〜You Oughta Know By Now〜』では、『第31回NHK紅白歌合戦』にも初出場した。

「私、ギャンブルのような不確かなことって好きじゃないんです。でも紅白に出場すると、今度は“落選”っていう言葉があるじゃないですか。だから事務所に“来年も出してくれる保障があれば出ますよ”って、最初は言ったんです。ずっと“私は出たくない”って言っていました。でも最後は “おばあちゃんが喜ぶから”と周りから言われて出場を決めたんです」

人気絶頂の中、1986年に、アメリカへ移住。活動拠点をロサンゼルスに移し、日本と行き来する生活をスタートさせた。今のようにメールやスマホも無い時代に、そのような決断をするきっかけは何だったのだろうか。

「やっぱり『世界歌謡祭』に参加したのが大きかったです。その経験から、“アメリカで一度は暮らしてみたい”という思いが芽生えました。じつは移住する前にも、アメリカで3か月ほどホームステイしていたことがあるんです。その時、英語が話せないと人生で損をするって実感しました。英語が話せない人生より、話せる人生の方が何倍もの喜びがあるのだろうって考えたんです。だからいつかは移住したいって強く思っていましたね」

自身を「好奇心旺盛な性格」という八神さん。周りの人が止めるのが耳に入らないうちに、さっと移住を決めたという。

「当時の芸能界では、しばらく表舞台に出なくなると色々と言われてしまう。もしかしたら、移住しなければ日本での音楽活動ももっとあったのかもしれない。でも将来的な音楽人生を考えた時に、やっぱり海外生活をして英語を話せるようになる方が重要と感じました。今はアメリカのアーティストの曲を聴いても、訳詞を見なくてもわかるようになりました。映画も字幕なしで理解できます。英語がわかるようになって、最初に想像していたよりも何十倍も人生の楽しみが増えましたね」

今でこそ、グローバル社会になり旅をしながら仕事を続けるデジタルノマドというような働き方も注目されるようになった。八神さんのなかにも、そのような先見の明があったのだろうか。

「『世界歌謡祭』に出演した時に、どこの国も人たちもみんな楽しそうに英語を話していたんです。そういうパーティーの場でも、日本人って日本人だけで集まって周りと交われないでいる。そういうのがすごく損だなって、思っていましたね」

背筋を伸ばし、ピンとした姿勢を保ちながら当時の思い出を語る八神さん。その瞳からは、力強い意志が感じられた。

八神純子(やがみ・じゅんこ)
1958年1月5日生。愛知県出身。シンガーソングライター。高校在学中からコンテストに出演し、1974年『第8回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に出場し優秀曲賞に入賞。1978年『思い出は美しすぎて』でプロデビュー。以来、『みずいろの雨』『パープルタウン ~You Oughta Know By Now~』などヒット曲を生みだす。1986年にアメリカに移住。現在も海外と日本を行き来しながら音楽活動を続けている。

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